カテゴリー「源氏物語」の記事

2023.05.17

紫式部の墓

 

紫式部像(宇治橋)
京都府宇治市宇治蓮華5−2(地図
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紫式部(むらさきしきぶ、生没年不明)は、平安時代中期の女性作家、歌人。源氏物語の作者として有名である。三十六歌仙の一人。
『小倉百人一首の紫式部の和歌』

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 
     雲がくれにし 夜半の月かな

(Wikipediaより)


紫式部の墓
京都府京都市北区紫野西御所田町地図
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源氏物語が文字の上で初めて確認できるのが、紫式部の1008年(寛弘5年)11月1日の日記とされています。

2023.05.15

蘆山寺 紫式部の邸宅


紫式部の邸宅(廬山寺(ろざんじ))


ここは式部の曽祖父:藤原兼輔の邸宅があったとされ、式部はこの邸宅で育ち、結婚、物語を執筆しました。そして、昭和40年に「源氏の庭」が作られました。


廬山寺(ろざんじ)





源氏の庭



紫式部と娘の歌碑



  紫式部(むらさきしきぶ)

 めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に
 雲かくれにし 夜半(よは)の月影


大貳三位(だいにのさんみ:式部の娘)

 有馬山 ゐなの笹原 風吹けば
 いでそよ人を 忘れやはする




鈴虫

鈴虫説明文




鈴虫の場面と紫式部の描かれた2000円札



貝合わせ

京都府京都市上京区寺町通広小路上ル(地図

2023.05.11

源氏物語の部屋(石山寺)

 源氏物語の部屋

紫式部は、源氏物語を書いたのが石山寺で、中秋の名月(八月十五夜)が琵琶湖に美しく映るのを見て、物語の構想をたて、「須磨」「明石」の帖から書き始めたと言われています。
(源氏が都を追われて、当時としては、都から離れた場所である須磨に居を構えた。)

 


源氏物語の間(石山寺本堂横)
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紫式部の部屋と本堂
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紫式部供養塔
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紫式部像
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第一章 光る源氏の物語 逝く春と離別の物語

 世の中、まことに厄介で、体裁の悪いことばかり増えていくので、「無理にそ知らぬふりをして過ごしていても、これより厄介なことが増えていくのでは」とお思いになった。

 「あの須磨は、昔こそ人の住居などもあったが、今では、とても人里から離れ物寂しくて、漁師の家さえまれで」などとお聞きになるが、「人が多く、ごみごみした住まいは、いかにも本旨にかなわないであろう。そうといって、都から遠く離れるのも、家のことがきっと気がかりに思われるであろう」と、人目にもみっともなくお悩みになる。


石山寺正門
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滋賀県大津市石山寺1-1-1(地図

 

 

   


   


2023.05.08

岡部の館



岡辺の館と周辺

明石の君が住んでいた屋敷跡。 

兵庫県神戸市西区櫨谷町松本 [地図]

 


「月影の 光る君住む 跡とへば 
   里の屋敷に 志ける蓬生」





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造りざまは、木が深く繁って、ひどく感心する所があって、結構な住まいである。


海辺の住まいは堂々として興趣に富み、こちらの家はひっそりとした住まいの様子で、「ここで暮らしたら、どんな物思いもし残すことはなかろう」と自然と想像されて、しみじみとした思いにかられる。三昧堂が近くにあって、鐘の音、松風に響き合って、もの悲しく、巌に生えている松の根ざしも、情趣ある様子である。
いくつもの前栽に虫が声いっぱいに鳴いている。あちらこちらの様子を御覧になる。娘を住ませている建物は、格別に美しくしてあって、月の光を入れた真木の戸口は、ほんの気持ちばかり開けてある。





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2023.05.06

恋の道


光源氏 恋の通い路(明石の巻)


光源氏が明石の上のもとに通った道が「蔦の細道」「恋の橋」としてあります。


【光源氏が始めて明石の上のもとに】
こっそりと吉日を調べて、母君があれこれと心配するのには耳もかさず、弟子たちにさえ知らせず、自分の一存で世話をやき、輝くばかりに整えて、十三日の月の明るくさし出た時分に、ただ「あたら夜の」と申し上げた。
 君は、「風流ぶっているな」とお思いになるが、お直衣をお召しになり身なりを整えて、夜が更けるのを待ってお出かけになる。お車はまたとなく立派に整えたが、仰々しいと考えて、お馬でお出かけになる。惟光などばかりをお従わせになる。少し遠く奥まった所であった。道すがら、四方の浦々をお見渡しになって、恋人どうしで眺めたい入江の月影を見るにつけても、まずは恋しい人の御ことをお思い出し申さずにはいらっしゃれないので、そのまま馬で通り過ぎて、上京してしまいたく思われなさる。
 「秋の夜の月毛の駒よ、わが恋する都へ天翔っておくれ
  束の間でもあの人に会いたいので」 とつい独り口をついて出る。

蔦の細道
兵庫県明石市大観町10-11地図




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無量光寺のすぐ横にあって、都から流された光源氏が、入道の娘”明石の君”と
知り合い、彼女の住む岡辺の館に通った恋いの細道と言われている。
二人の間に生まれた”明石の姫君は、東宮の后となる。

恋の橋(高津橋)(地図)


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「明石の君」が住んでいた「岡の館」にしげしげと通った時に渡った橋と伝えられている。橋の北の丘にある「光源氏丘越えの松」跡に神殿もあります。
大井川に架かっていて、現在は、水も流れておらず、車2台通るのがやっとの道幅です。神戸市西区玉津町にあります。

2023.05.03

明石入道の屋敷

源氏物語には、紫式部が明石に来て、実際に見て書いたように思わせ、そのことを記した石碑が建てられています。


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【浜の館:善楽寺威光院】
明石入道が住んでいた屋敷。
源氏屋敷:無量光寺の隣にあります。 [地図]

天然の景勝はいうまでもなく、こしらえた趣向、木立、立て石、前栽などの様子、何とも表現しがたい入江の水など、もし絵に描いたならば、修業の浅いような絵師ではとても描き尽くせまいと見える。数か月来の住まいよりは、この上なく明るく、好もしい感じがする。お部屋の飾りつけなど、立派にしてあって、生活していた様子などは、なるほど都の高貴な方々の住居と少しも異ならず、優美で眩しいさまは、むしろ勝っているように見える。・・・・・
高潮を恐れて、近頃は、娘などは岡辺の家に移して住ませていたので、この海辺の館に気楽にお過ごになる。・・・・・
 (源氏物語の一節)

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「明石の君の親入道の碑」
善楽寺威光院内にあります。

年齢は六十歳くらいになっているが、とてもこざっぱりとしていかにも好ましく、勤行のために痩せぎみになって、人品が高いせいであろうか、頑固で老いぼれたところはあるが、故事をもよく知っていて、どことなく上品で、趣味のよいところもまじっている・・・・・



五代藩主松平忠国が建てたと言われている「浜の松」の碑
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忠国の和歌
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「いにしへの 名のみ残りて ありあけの 
     あかしの上の 親住みし跡」


松平忠国
慶安2年(1649)転封で播磨明石藩主松平(藤井)家初代として7万石を領した。
和歌を詠み、明石が源氏物語の舞台となっていることから、光源氏の碑を作り、自作の和歌を詠んでいます。


2023.04.28

明石の巻(源氏の家)


源氏物語 明石の巻(源氏の館)


「明石の浦から、前の播磨守の新発意が、お舟支度して参上したのです。源少納言、伺候していらしたら、面会して事の子細を申し上げたい」
とおっしゃる。この上なく喜んで、お礼申し上げる。

 「ともかくも、夜のすっかり明けない前にお舟にお乗りください」
ということで、いつもの側近の者だけ、四、五人ほど供にしてお乗りになった。例の不思議な風が吹き出してきて、飛ぶように明石にお着きになった。
須磨から明石は、わずか這って行けそうな距離は時間もかからないとはいえ、やはり不思議にまで思える風の動きである。
(源氏物語の一節)

光源氏が須磨から明石に住家を移動する。
( 源氏の館  無量光寺   兵庫県明石市大観町)

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無量光寺
物語の中の源氏屋敷とも言われている。
山門は、彫刻の名人左甚五郎作と伝えられている。


源氏稲荷(無量光寺内)

源氏が月見をした朝顔光明寺 地図



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光源氏 月見の池(朝顔光明寺内)

「秋風に 波やこすらむ 夜もすがら 
    あかしの浦の 月のあさがほ」
寺伝によると昔は、池は今の10倍もの大きさであった。
           
※近くに同名の浜光明寺があります。
まぎらわしいのでこちらを朝顔光明寺と言う。

2023.04.26

須磨2

明石の入道は、源氏が須磨にいることを聞き娘の明石の君を源氏に嫁がせたいと思う。
3月、海岸に出た源氏に突然嵐が襲い、源氏は須磨を去ることを考える。

暁方、みなうち休みたり。君もいささか寝入りたまへれば、そのさまとも見えぬ人来て、「など、宮より召しあるには参りたまはぬ」とて、たどりありくと見るに、おどろきて、「さは、海の中の龍王の、いといたうものめでするものにて、見入れたるなりけり」と思すに、いとものむつかしう、
この住まひ堪へがたく思しなりぬ。

(源氏物語須磨の巻の一節)

 

源氏寺は、昔から有名だったようで、芭蕉や子規&明治天皇も訪ねておられます。




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謡曲「須磨源氏と現光寺」の説明文

 


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淡路(あはぢ)島 かよふ千鳥の 鳴く声に
いく夜寝覚めぬ 須磨の関守(せきもり)

地図



芭蕉の句碑「見渡せば ながむれば見れば 須磨の秋」
(1678(延宝6)年、松尾芭蕉35才の作)

子規句碑
「読みさして 月が出るなり 須磨の巻」

 


     

       明治天皇行幸の碑

 

 

 

2023.04.23

須磨の巻

光源氏は、後見を任されている東宮の地位も危ういと考え、京を離れる寂しさや紫の上への思いを心にもったまま数人の友とともに須磨に行き、ひっそりと暮らす。

光源氏が住んでいた場所が源氏寺とされています。


源氏寺(現光寺)は、兵庫県神戸市須磨区にあります。【地図

「おはすべき所は 行平の中納言の藻潮たれつつわびける家居近きわたりなりけり 海面はやや入りてあはれにすごけなお山なかなり」
(源氏物語の一節より)

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氏寺全景

 

現光寺が本名で、通称:源氏寺と言われています。


源氏寺の碑

 

 

源氏寺から南を見た風景で、100mくらいの間に山陽電車、国道2号線、JRが走った交通の要です。その先は海岸で阪神間一番の海水浴場です。

左の石垣が源氏寺です。

 


 


源氏寺の北側は、平安時代は山であったが、今は、住宅地です。600Mほど行くと須磨寺があります。



紫式部が須磨の地を想像して書いた「海が入り込み、すごい山の中」と言う雰囲気は今は全くありませんが、海はすぐ近くで、山の中と言う表現は、平安時代ではそうであっただろうと思われる土地柄です。

近くには、義経が平家軍を攻めた鵯越の坂落しの場所や一の谷の合戦場があります。

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