カテゴリー「義経 打倒平家」の記事

源平合戦史蹟の紹介

2022.05.13

義経 打倒平家86 義経その後

義経は、死なない、北の方に行って再起の時期を待った北行伝説が語り継がれています。

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文治5年閏4月30日(1189年6月15日) に奥州衣川の館で源義経は死去したとされているが、人々の生きていて欲しいという願望と、自決後の義経の首の搬送期間が不自然に長かったことなどから、

実は生きて逃亡したのではないかという疑念や期待が「義経不死伝説」を産んだ。

室町時代以降、「判官びいき」と「義経不死伝説」が「御曹司島渡」説話と結びつき、「義経北行伝説」となった。実は蝦夷地にわたったという伝説「源義経北行伝説」へと進化した。そして其れは様々な誤解と伝説と虚説、あるいは捏造の書物を生み出した。

江戸時代に源義経は蝦夷のアイヌたちの棟梁に突如成り、金国の将軍に昇格し、ついには清国の祖になった。この「義経=清朝清祖説」は江戸時代から明治まで夏目漱石の小説「吾輩は猫である」の中で語られていて判るように、一般民衆に長く信じられた。

そしてついに明治になってチンギス・ハン(成吉思汗 1162年5月31日? - 1227年8月25日?)モンゴル帝国の初代皇帝となる。そして小谷部全一郎の『成吉思汗は源義経なり』は戦地で実際に配られ、「満蒙は国家の生命線」と大正から昭和にかけ先の大戦中、大陸の侵略に利用された。

(参考;Wikipediaより)

 

2022.05.11

義経 打倒平家85 高館義経堂

義経の絶頂期が須磨寺であって、終焉の地がここ高舘義経堂です。




平泉地図
中尊寺地図




1189(文治5)年、義経は、頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡の子:4代泰衡の急襲にあい、この地で妻子を殺害し、自害したと言われています。この義経堂は、1683(天和3)年に仙台藩主:4代伊達網村公が建立しました。



義経像






高舘義経堂











義経主従供養塔





階段を登ったところが義経堂です。





義経堂から見た北上川と束稲山(たばしねやま)
束稲山とは経塚山、音羽山、束稲山の三つの山の総称。





この階段を登って行くと眼下に北上川の見える所に出ます。





夏草や 兵共が 夢の跡(芭蕉)





頼三樹三郎詩碑







須磨寺 義経腰掛松の記事は こちらから

2022.05.09

義経 打倒平家84 弁慶堂

義経が頼朝に追われて、最後に頼ったのが藤原三代秀衡ですが、秀衡が亡くなり、四代泰衡が頼朝の圧力に屈して、義経を自害に追い込み、その後、泰衡が頼朝との戦いに敗れ、藤原氏も滅亡〔1189年(文治5)〕しました。

 

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義経と最後まで戦った弁慶に関係のあるお堂が中尊寺にあり、お墓が中尊寺入口にあります。 武蔵坊弁慶は、主君義経を守らんと、衣川館の前で仁王立ちして全身に矢を受け、立ったまま亡くなりました。
 

伝弁慶の墓

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弁慶堂
義経と弁慶の木造が安置されています。

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2022.05.07

義経 打倒平家83 中尊寺2

中尊寺の建物

 

讃衛蔵(さんこうぞう)
3000点以上の国宝、重要文化財を収蔵し、それらを展示室で見ることができます。
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経蔵(きょうぞう)
金色堂のそばに建つ経蔵は、国宝:中尊寺経(きょう)を納めていたお堂。平安時代に建立。
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大日堂
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西谷坊
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梵鐘
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阿弥陀堂
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弁財天
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峯薬師堂
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八幡堂
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2022.05.05

義経 打倒平家82 中尊寺1

今から900余年昔の平安時代、奥州藤原氏によって築かれた平泉、初代藤原清衡(きよひら)は、恒久平和を願って中尊寺を建立、二代基衡(もとひら)は、大伽藍や浄土庭園を配した毛越寺を造るなど仏都づくりに努め、三代秀衡(ひでひら)は、無量光院などが建つ仏教都市を出現させ、さらに柳の御所などを整備して行政都市の機能を高め、「北方の王者」として絶頂期を迎えました。そのころ、都では、源氏と平家が中央の権力を争い、平家を倒した義経をかばった四代泰衡(やすひら)は、源頼朝によって滅ぼされてしまい、栄華をほこった藤原氏も滅亡してしまいました。
(参考資料:パンフレット岩手宝国)

 

中尊寺は、駅から約2Kのところにあります。

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金色堂
1124(天治元)年の造立。ご本尊は阿弥陀如来、堂全体を金箔で覆い、極楽浄土を表しています。金色堂は覆われています。中央に初代清衡公、左に二代基衡公、右に三代秀衡公の御遺体と四代泰衡公の首級が納められています。
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旧覆堂
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本堂

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芭蕉句碑
夏草や 兵どもが 夢の跡
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと

 

五月雨の 降のこしてや 光堂
(さみだれの ふりのこしてや ひかりどう)
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1689(元禄2)年5月(新暦6月)に、芭蕉(46)と曽良(41)は奥の細道の旅で平泉を訪れています。

 

平泉駅
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中尊寺の地図は こちら

 

 

2022.05.03

義経 打倒平家81 義経妻子墓

義経妻子の墓は、金鶏山麓千手院入口から入った所にあります。


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義経妻子の墓
死亡時の年齢は、北の方22歳、娘4歳

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義経の正室は、北の方(郷御前)と呼ばれ、武蔵国(川越市)の豪族:河越重頼の娘。1184(元歴元)年、頼朝の命により義経(26歳)に嫁ぎ(17歳)、頼朝と義経が対立したのちも義経の逃避行に従い、最期を共にした女性とされる。

 

 

千手院
藤原三代の位牌と秀衡の木造が安置されています。
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2022.05.01

義経 打倒平家80 毛越寺

義経は、1185年、壇ノ浦の戦いで、平家一族を滅亡させるが兄:頼朝と対立して頼朝の追手に追われて逃げ回った。義経は、若い頃に住んでいた奥州平泉(岩手県)へ逃亡し、藤原氏3代目秀衡の保護を受けようとした。

 

毛越寺(もうつうじ)

寺伝によれば850年(嘉祥3年)、中尊寺と同年に円仁が創建。その後荒廃したが、奥州藤原氏第2代基衡、および、第3代秀衡が壮大な伽藍を再興した。中世の歴史書『吾妻鏡』によれば、「吾朝無双(我が国で並ぶものがない)」と評された。
(Wikipedia)

本堂
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夏草や 兵どもが 夢の跡

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毛越寺入口
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毛越寺に横にあります。

 

藤原四代

藤原清衡(きよひら) 初代 奥州を統一する

藤原基衡(もとひら) 毛越寺を創建した

藤原秀衡(ひでひら) 源義経を保護したことで頼朝と対立して、奥州藤原氏滅亡のきっかけを作ってしまいました

藤原泰衡(やすひら) 1190年に頼朝に攻められ奥州藤原氏は滅亡してしまいます。 

 

 

2022.04.29

義経 打倒平家79 北陸源平 皆鶴姫

皆鶴姫の碑(みなづるひめ)

平安時代末期に源義経が奥州平泉(現在の岩手県平泉町)に下向した際、京都で恋仲となった皆鶴姫が義経を追って二人の間の子供である帽子丸を連れて当地を訪れました。
平家の追討を受けていた事から、帽子丸は捕縛され沼(帽子沼)に投げ捨てられ溺死(享年2歳)、皆鶴姫は追ってから逃れたものの、疲労困憊となり、難波池で自分の姿が余りに醜く映り、義経に追いつく事もかなわない事から身投げしてしまいました(享年18歳)。その報を聞いた義経は急いで戻り難波池の畔に葬り墓碑を建立したと伝えられています。
義経は2度奥羽の藤原氏を頼っています。一度目は平清盛に追われ、2回目は頼朝に追われています。

福島県会津若松市河東町倉橋字藤倉 (地図

 

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2022.04.27

義経 打倒平家78 北陸源平 安宅関

安宅関(あたかのせき)

壇ノ浦で平家を滅ぼした義経を兄:頼朝は警戒しはじめ義経を捕らえようとする。義経は、奥州平泉の藤原氏のもとへ落ち延びようとして北陸道を北上しました。

1187年3月(文治三年)ころ、山伏姿に変装した義経主従一行が安宅の関を通過しようとしたとき、関守富樫に疑われる。そのとき、弁慶は東大寺復興勧進のため諸国を廻る役僧と称し、勧進帳(寄付帖)の空読みを行った。しかし、強力姿の義経が見破られそうになった。弁慶は、疑いを晴らすため金剛杖で主:義経を打ち据えました。富樫は、弁慶の知と忠誠心に心をうたれ、義経と知りつつ主従の通行を許しました。
(小松市観光協会パンフレット参照


安宅の関跡

 地図

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    義経     弁慶    富樫

 

安宅関跡
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与謝野晶子l詩
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与謝野晶子の句
松立てる  あたかの砂丘  その中
清きは文治   三年の関



小松駅前 弁慶と富樫
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弁経謝罪の地 (地図
安宅関を無事通過した義経一行が、道林寺に着いた。
弁慶は、主:義経を金剛杖で打った罪を謝罪した。義経は「機知の働きは天の加護」とその忠誠心をねぎらったと言う。

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北陸源平の史跡
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 1.平陣屋  平家軍が陣を置いたと場所と言われている
 2.尼御前岬 義経一行の中にいた尼が足手まといにならないようにと身を投げた岬
 3.鏡の池  実盛が白髪を染めるために使った鏡を投げ入れた池
 4.実盛塚  斉藤実盛の墓
 5.首洗池・篠原古戦場  実盛の首を洗った池と古戦場
26.正覚寺  仏御前が去るとき清盛が与えた阿弥陀如来像が安置されている
27.菅生石神社 義経が奥州行きのときに参拝した
 6.安宅関・住吉神社 勧進帳の義経・弁慶・富樫の像と関所跡があります。
 7.多太神社  実盛の兜と芭蕉の句碑があります。
 8.根上の松  根が地上に浮き上がった松があり、古戦場の跡でもあります。
 9.弁慶謝罪の地 主人義経を打った弁慶が謝罪した道林寺跡

10.仏御前の里 清盛の愛人・仏御前の像・屋敷跡・墓があります。
11.泰産神社  仏御前が人々の安産を願って寄進した神社
12.木滑神社 仏御前が清盛の子を出産するときに寄りかかった石があります。
13.巖根神社 義経主従が武運祈願をした
14.布市神社 弁慶の力石
15.金釼宮  義経の腰掛岩
28.大野湊神社 義経主従が富樫を訪れた弁慶を待った場所
16.鳴和の滝 安宅の関守・富樫が義経一行に追いつき酒宴を開いた。
17.夜明かしの松 義経主従が松の根元でたき火をして一夜を明かした。
18.倶利伽羅古戦場 義経一行が峠を通るさい滅びた平家の魂を祀った。
           木曽義仲が平維盛を「火牛の計」で破った

19.如意の渡し 義経の素性が疑われ弁慶が義経を打った勧進帳の元になった。
20.弁慶の足跡岩 弁慶の足跡の大きなくぼみのある石がある。
21.碁盤島  景色がすばらしく、義経一行が上陸し碁を打った
22.義経の船隠し岩 義経一行が追っ手を逃れるため洞窟に船を隠した。
23.窓岩  義経が放った矢で岩盤を貫いた伝説があります。
24.平時忠一族の墓 檀の浦の合戦で捕らえられた時忠が流された地
25.須須神社 海難を逃れるため義経と弁慶が笛と短刀を奉納した





 

2022.04.25

義経 打倒平家77 北陸源平 尼御前

義経は、一の谷そして屋島と平家を追い詰め、壇ノ浦で滅亡させたが、頼朝への報告で鎌倉に行ったが会ってもらえず、平家の大将:平宗盛連れて京都に帰りました。頼朝の「義経追討令」が出て、追われる身となった義経は、京都→吉野→北陸→奥州(藤原氏)へと落ち延びて行きました。

「義経記」によれば越前(福井県)平泉寺(へいせんじ)→加賀市・菅生石部神社(すごういそべ)→加賀市の多太神社で斎藤実盛を偲んでいる。安宅の渡し(小松市)から根上松(ねあがり)(能美市)、白山権現に参拝、加賀国富樫(野々市町)を過ぎ、かつて木曽義仲が平家を破った倶利伽羅峠(くりからとうげ)(津幡町(つばた))では平家の霊を慰め経を読んでいます。

 

尼御前岬  
石川県加賀市美岬町 (地図
義経一行の中にいた尼が、安宅関の取調べの厳しさを聞き、足手まといにならないようにと義経の安泰を願って岬から身を投げた悲しい話が伝わっています。

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(写真は合成です)

 

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 1.平陣屋  平家軍が陣を置いたと場所と言われている
 2.尼御前岬 義経一行の中にいた尼が足手まといにならないようにと身を投げた岬
 3.鏡の池  実盛が白髪を染めるために使った鏡を投げ入れた池
 4.実盛塚  斉藤実盛の墓
 5.首洗池・篠原古戦場  実盛の首を洗った池と古戦場
26.正覚寺  仏御前が去るとき清盛が与えた阿弥陀如来像が安置されている
27.菅生石神社 義経が奥州行きのときに参拝した
 6.安宅関・住吉神社 勧進帳の義経・弁慶・富樫の像と関所跡があります。
 7.多太神社  実盛の兜と芭蕉の句碑があります。
 8.根上の松  根が地上に浮き上がった松があり、古戦場の跡でもあります。
 9.弁慶謝罪の地 主人義経を打った弁慶が謝罪した道林寺跡

10.仏御前の里 清盛の愛人・仏御前の像・屋敷跡・墓があります。
11.泰産神社  仏御前が人々の安産を願って寄進した神社
12.木滑神社 仏御前が清盛の子を出産するときに寄りかかった石があります。
13.巖根神社 義経主従が武運祈願をした
14.布市神社 弁慶の力石
15.金釼宮  義経の腰掛岩
28.大野湊神社 義経主従が富樫を訪れた弁慶を待った場所
16.鳴和の滝 安宅の関守・富樫が義経一行に追いつき酒宴を開いた。
17.夜明かしの松 義経主従が松の根元でたき火をして一夜を明かした。
18.倶利伽羅古戦場 義経一行が峠を通るさい滅びた平家の魂を祀った。
           木曽義仲が平維盛を「火牛の計」で破った

19.如意の渡し 義経の素性が疑われ弁慶が義経を打った勧進帳の元になった。
20.弁慶の足跡岩 弁慶の足跡の大きなくぼみのある石がある。
21.碁盤島  景色がすばらしく、義経一行が上陸し碁を打った
22.義経の船隠し岩 義経一行が追っ手を逃れるため洞窟に船を隠した。
23.窓岩  義経が放った矢で岩盤を貫いた伝説があります。
24.平時忠一族の墓 檀の浦の合戦で捕らえられた時忠が流された地
25.須須神社 海難を逃れるため義経と弁慶が笛と短刀を奉納した

 

東尋坊
福井県坂井市三国町安島(地図
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海から見た東尋坊

 

平泉寺(へいせんじ福井県)
福井県勝山市平泉寺町66-2-12 (地図)

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菅生石部神社(すごういしべ)

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多太神社(たたじんじゃ)地図

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斎藤実盛像
平家の武将

 

実盛墓(地図 )
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