カテゴリー「歴史史跡」の記事

2022.04.18

宮本武蔵と明石

宮本武蔵と明石

宮本武蔵(宮本神社絵馬)
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明石城
兵庫県明石市 (地図)

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1617年7月〔元和3年(げんな)〕、小笠原忠真(ただざね)が信州松本から明石に国入りする。義父の姫路城主本多忠政と相談し人丸山に新城を築く。
その時、町づくりに本多忠政の長男忠刻(千姫の夫)の客臣宮本武蔵が姫路から明石に来て小笠原家の客分となり、明石の町割りをしました。(播州明石記録)

武蔵は、明石滞在中に、自分の剣に「円明流(えんみょう)」という流名をつけています。円明は、月の名所である明石の月からきています。

 

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城から見たから見た明石の町
左(東側)は、巽櫓(たつみやぐら)、右(西側)坤櫓(ひつじ)お城の南側で、左に明石海峡大橋や中央に淡路島が見えます。

お城から見た明石の町と武家屋敷
城の南側に町民の住む町を作りました。今日の明石の商店街として栄えている鍛冶屋町、細工町、東本町、西本町、信濃町(今の中町)、東魚町、西魚町、東樽屋町、西樽屋町、材木町、明石町が誕生した。

『播州明石記録』によると明石の町割りは、宮本武蔵が行ったと伝えています。

 

織田家長屋門
(侍町:現大明石町2丁目 地図
武家屋敷の遺構として唯一現存するもので、お城の正面右手に位置し、この辺りは藩の重臣の屋敷が多くあった。

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武蔵が造った庭園

明石城内の庭園
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本松寺庭園 ≪地 図≫
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円珠院内庭園 ≪地 図≫
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明石城
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2022.04.17

宮本武蔵出生の地2 作州説

宮本武蔵出生の地 作州説

 

作 州 説

岡山県英田郡大原町宮本 ≪地 図≫
吉川英治著「宮本武蔵」の中で作州讃甘村(さのもむら 岡山県)と書かれています。

父は、兵学の指南役で幼少の武蔵に得意の十手術を教えた。当時から体格の良かった武蔵は近郷きっての暴れん坊に成長する。

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宮本武蔵生家
約60m四方の大きな茅葺の家であった。S17年に火災にあい、現在の瓦屋となる。1584年(天正12年3月)この地にて父:無二斎、母:お政の二男として生まれる。

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武蔵神社
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宮本武蔵の墓
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武蔵の親の墓
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讃甘神社(さのも)
関が原の戦いのあと、帰郷の途中、播州境の木戸を破ったことにより追われ、宮本村に帰って、讃甘の山に隠れていた。その地名が残っている。
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智頭線宮本武蔵駅
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宮本武蔵駅前にて

武蔵、お通、又八

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初決闘の場  ≪地 図≫

武蔵13歳の時、播州平福で新当流有馬喜兵衛と口論の末、一刀の元に打ちはたし、そのまま武道終業の旅に出る。
(5輪書に書かれています))

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《 武 蔵 の 初 決 闘 》  著者:直木 三十五 「日本剣豪列伝」より
『・・・といっているうちに、弁之助(武蔵の少年時代の名)が、づかづかと、入ってきて、「喜兵衛とは、その方か」と、怒鳴った。十三歳と聞いて(何の子供が)と、世間の十三の 子供を描いていた有馬は、余りに大きいのに(これが十三か)と、思いつつも「よう参った」と、声をかけると、弁之助は「勝負」と、叫んで、有馬を打った。喜兵衛は、その振舞いに 「何を致す」さっと抜き打ちにーーー弁之助は、手早くかわして、棒をすてると、無手(むず)と、喜兵衛に組みついて「あっ」と、人々も、有馬もいう瞬間、有馬を頭上へ差し上げると、 力任せに、大地へ叩きつけた。起き上がれずに、もがく有馬の背や、頭を、棒を拾って「どうだ、どうだ」と、つづけざまに、その性来の大力で打ったから、有馬は動かなくなって しまった。頭も血塗れ(ちまみれ)であった。・・・』

 

平福宿場通り
川に沿って南北に通る宿場町。武蔵の初決闘の場所は、ここより南側の金倉橋のたもと平福の松原であった。1597年(慶長2年)のことでした。

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竹山城址
1493年(明応2年)、新免伊賀守貞重によって築城される。武蔵の祖父平田将監が家老とし、又、父平田武二斎が剣道師範として仕えた場所です。

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2022.04.16

宮本武蔵出生地1 高砂説宮本説

宮本武蔵の出生地1 高砂説宮本説

宮本武蔵の生まれた場所には、色々な説があります。歴史上の宮本武蔵は、その伝記に不明な点が多く、生まれた土地や生没年も謎に包まれています。武蔵自身は、五輪書の中で「生国播磨の武士・・・」と書いています。

●高砂説 ●宮本説 ●作州説

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高 砂 説

米田天神社 ≪地 図≫

兵庫県高砂市米田町米田 
武蔵の養子伊織が加古川市の泊神社に献上したとされる棟札(とうさつ)等が根拠になっています。

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宮本 武蔵 ・ 宮本 伊織 生誕の地
(幅・約6m 高さ・約3m)
宮本一族が武蔵・伊織の生誕の地と認めた碑

 

武蔵の養子伊織が改築した泊神社(兵庫県加古川市木村)の棟札(とうさつ)には、「作州(岡山県英田郡(あいだ)大原町)に新免という武士があり世継ぎがないまま死んだ。その遺志を継いだのが武蔵で、後に宮本と氏を改める。武蔵には子供が無く、伊織(武蔵の兄の子供)を養子にし、伊織も宮本姓を名乗った・・・」とあります。この資料から田原一族が住んでいた米田(兵庫県高砂市米田)で武蔵は生まれ、、新免の跡を継いで宮本姓を名乗ったのが、真説かと思われます。
泊神社の棟札は、1961年(昭和36年)に発見された。広く世に伝わっている武蔵像は、吉川英治著「宮本武蔵」からで、この書が書かれたのは、1935年(昭和10年)であった。


※棟札とは、建物の棟上の際に、建造の年月日や施主などが記され、天井の棟木などに打ち付けられた板札のこと。古文書のみでは分からなかった地域の歴史なども読み取ることができる。

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泊神社(とまり)
1653年(承応2年)、宮本武蔵の甥で養子の宮本伊織が、小倉藩筆頭家老に就き、故郷の当宮を武蔵の供養の意を込め浄財を寄進し全社殿を再建した。

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本殿裏の二基の灯籠は、宮本伊織と田原正久が寄進した。

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田原家屋敷跡
このあたりは、庄屋であった田原家の土地の一部であったとされている。
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天正十年(1582)に武蔵は生まれる。武蔵は、後に養子にした伊織の父の弟で、作州宮本無二之助一直の養子となった。

兵庫県加古川市木村  ≪地 図≫

 



宮 本 説

宮本武蔵生誕地の碑(石海神社前)

兵庫県揖保郡太子町宮本162
 ≪地 図≫

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地誌「播磨鏡」に『損東郡鵤ノ庄(いかるがのしょう)宮本村の産なり』とあります。
宮本武蔵、損東郡鵤ノ庄(いかるがのしょう)宮本村の産なり。若年より兵術を好み諸国を修業し、天下にかくれなく則武蔵流と云いて諸士に門人多し、然れども諸侯に仕えず明石に至りて小笠原右近将監督候に趣き玉ふとき同伴し、養子伊織に五千石を賜りて大老職に任官す。今に其子孫孫三千石にて家老職と云・・・。

※【播磨鏡は地誌で、1762年(宝暦12年)に播磨国の神社・仏閣・名所古跡・人物・物産・風俗・古老の伝承等を記載した書物です。】

 

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《二刀流について》 著者:早乙女 貢 「新編 実録・宮本 武蔵」より
『武蔵は、「・・・兵法の道、二天一流と号し」て、「この一流二刀と名付ける事」といい、二刀の利点を述べてはいるが、”まず片手にて太刀を振り習はんために、二刀として、太刀を 片手にふり憶ゆる道也”とある。腕を鍛えるためだというのだ。・・・・・一刀よりも二刀が便利だと思うのは、二挺拳銃くらいしかない。刀というものを考えていない証拠だ。刀というものが 如何に重いか。サーベルとは違う。三尺前後の太刀を、片手で持って骨まで切り下げるというのは、相当な膂力(りょりょく)の持ち主でなければ難しいのだ。右の太刀で人を斬り、左の 脇差でも人を斬るというのが容易だったら、一人二役だから二刀流の名人というのが輩出したはずである。・・・』

 

 

2022.04.15

宮本武蔵 巌流島の決闘

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   宮本武蔵対佐々木小次郎

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武蔵!遅参とは何事か。臆したか。
というや物干し竿を抜き放ち鞘は波間へ。
それを見た武蔵はにやりと笑いこう叫んだ。

小次郎破れたり!

 

 

巌流島

関門海峡に浮かぶ巌流島の正式名称は「船島」。下関市の彦島江の浦東岸250mにある無人島です。
この島で、1612(慶長17)年4月13日に宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘し、敗れた佐々木小次郎の流儀「巌流」をとって巌流島と呼ばれるようになりました。 また、4月13日を決闘の日としています。

《 地図 》
巌流島へは、下関唐戸から10分ほどで行けます。

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決闘

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遅れてやってきた武蔵は、櫂(かい)の木刀をひっさげ素足で舟から降り立った。小次郎は武蔵が近ずくと長刀を真っ向に振りたて、眉間(みけん)めがけて打ちおろした。同時に武蔵も櫂の木刀を打った。その木刀が小次郎の額にあたり、たちどころに倒れた。小次郎の打った刀は、その切先が武蔵の鉢巻の結び目に触れ、鉢巻は二つになって落ちた。武蔵は倒れた小次郎を見つめ、又、木刀を振り上げて打とうとする瞬間、小次郎が刀を横にはらった。武蔵の袴のすそを三寸ばかり切り裂いた。が、武蔵の打ち下ろした木刀は、小次郎のわき腹、横骨を打ち折った。
小次郎は気絶し、口鼻から血を流した。武蔵は手を小次郎の口鼻にあてがい、死活をうかがい、一礼して立ち去った。
(「二天記」より)

 

宮本武蔵

生まれは、兵庫県とも岡山県とも言われる。太刀を右手に小刀を左手に持ち自在に操る二天一流。13歳で初決闘、その後多くの試合に勝って来たが、謎につつまれている。

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佐々木小次郎

出生地、年齢などほとんど謎。自ら巌流という流派を起こし、刃渡り90cm以上の長刀を操る。頭上から一気に振り下ろし剣先をひるがえして下から切る「燕返し」を得意とした。

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佐々木巌流の碑
巌流島の名前は小次郎の流派の名前。島の正式名は船島

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対決を歌った和歌
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この島に 二人降り立ち    闘ひし 

むかしの男  恋ほしかるかな

森重 香代子 

 

武蔵出陣の地
小次郎の物干し竿に対すべく武蔵は行きの船上で櫂を削る。仕合開始が午前8時にも関わらず陽が高く昇りきったころ武蔵は舟島に向かった。
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武蔵船出の地
船出の地から巌流島を望む 距離:約5.5km
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巌流島から武蔵船出の地を望む

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2021.02.10

織田信長の子孫はどうなった

大河ドラマ「麒麟がくる」が織田信長、明智光秀の死で終わりました。

織田信長の死後、その子孫はどうなったか気になったので調べてみました。

 

1582年(天正10)7月、清州会議が開かれ、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興が集まり、織田信長の後継者は孫の三法師と決めました。

 

信長の子供たちはどうしていたか。(子供は24人?か。男12名?、女12名?)

長男:信忠  父:信長と同じ日に二条新御所で自決。

次男:信雄(のぶかつ) 後に僧侶になる。

三男:信孝  柴田勝家につき後に自刃する、

四男~十二男?は、秀吉についた者、反対側についた者などいろいろでしたが信長の跡を継いで織田家を盛り上げていこうとするほどの子供はいませんでした。

1598年(慶応3)、信長の9歳下の弟:信包が柏原(かしはら 兵庫県丹波市柏原町)3万6千石初代柏原藩主となり、次いで伸則、信勝と3代続くも絶えて終う。
その後は幕府直轄領になっていましたが、1695年(元禄)に大和から織田の流れをくむ「信休」が藩主となり、その家系が幕末まで続きました。

フィギュアスケートでバンクーバーオリンピックで7位に入賞し織田信成氏(のぶなり)が織田家の末裔と自称しておられます。

 

柏原藩
兵庫県丹波市柏原
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長屋門

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織田神社
三代目藩主:織田信勝を祭神としている
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建勲神社
織田信長を祀った神社
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八幡神社
明智光秀によって消失したが豊臣秀吉が再建した
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つつじ太鼓(町のシンボル)
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2020.11.24

高梁市 備中松山城

寅さんのロケ地:岡山県高梁市(たかはしし)は城下町で標高430mの山頂にお城があります。

天守閣が現存する唯一の山城です。9月末~4月初には、雲海に浮かぶお城が見れます。

 

高梁市遠景

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外観は、三重ですが2階建てです。
1683年(天和3)、水谷勝宗の時に現在の形になりました。

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三の平櫓東土塀(さんのひらやぐら)   二重櫓(遠方のやぐら)

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1階に囲炉裏があります。

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2019.06.22

箱館戦争12 函館奉行所

箱館奉行所は、幕末のの函館開港により設置された江戸幕府の役所です。1854(安政元)に箱館が開港され函館山麓(現在の元町公園)に奉行所が置かれましたが防衛上の問題で亀田の地に五稜郭を設けました。
五稜郭は、1857(安政4)に始まり、7年後の1864(元治元)に完成しました。


地図10 函館市五稜郭町43-9
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箱館奉行所正面入り口
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五稜郭内建物
中央が箱館奉行所建物

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執務室
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表座敷
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廊下
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トイレ
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土蔵
残っているただ一つの建物

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中央:榎本武揚(えのもと たけあき)箱館戦争での幕府側首脳
右:ジュール・フリュネ江戸幕府の榎本武揚を支援して箱館の防衛を指示したフランス人軍人、幕府側が降伏したさいは、フランス船に逃れていた。
左:中川嘉兵衛静岡県出身の実業家、箱館の天然水を「函館水」として売り出す。彼の創った横浜氷会社は、ニチレイとなっている。

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中央:杉浦 誠 幕末の幕臣 1866年箱館奉行勤務 ロシア、イギリスなどの外交問題に対応、1869(明治2)に新政府の一員として再び箱館勤務
右:武田斐三郎(あやさぶろう)伊予大洲藩士  弁天岬台場、五稜郭の建設などをおこなう。
左:清水谷公考(きんなる) 江戸時代後期の公家 函館府知事として函館戦争の戦後処理を行った。

 

 

12回続いた「箱館戦争」も今回で終です。訪問してくださった皆さん、ありがとうございました。

 

次回は、函館訪問で訪ねた「高田屋嘉兵衛」の史跡を淡路島の史跡を交えてアップしていきます。

 

2019.06.20

箱館戦争11 五稜郭


1853年、アメリカ合衆国のペリー艦隊の来航(黒船)によって200年以上続いた鎖国政策は終り、伊豆の下田と箱館が開港されました。


こんな不穏な時代、蝦夷地を守るために、1857年から五稜郭の建設が始まり、1864年に箱館奉行所としてヨーロッパ城郭の構造を取り入れた五陵星形の城が造られました。

 

地図10 函館市五稜郭町43-9
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北海道拡大図

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五稜郭全体図(タワーから)
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箱館戦争供養塔
両軍の戦死者を祀る供養塔
(旧幕府軍約800名、新政府軍約300名)
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1869(明治2)年5月17日、榎本武揚(たけあき)ら旧幕府軍の首脳は、降伏を申し出て五稜郭を明け渡し、箱館戦争は終結しました。


五稜郭タワー
星形に造られた城郭をタワーから一望することができます。土方歳三の像があります。
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イケメン新選組隊員

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五稜郭跡(入り口)
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武田斐三郎(たけだあやさぶろう)先生顕彰碑
五稜郭の設計、工事監督を行なう
1857(安政4)着工~1864(元治元)完成
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箱館戦争のとき、旧幕府脱走軍がこの城に立て籠もりました。

 

 

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2019.06.17

箱館戦争10 亀田八幡宮

1869年(明治2年)5月の箱館戦争で戦場となり、社務所が焼かれ神輿殿には弾痕が残る。同年5月17日には、榎本武揚、大鳥圭介らが、新政府軍の黒田清隆らと降伏交渉を行った後、本神社を訪れ、降伏を誓約した。建物には、戦闘でついた弾痕がのこされています。


地図9 函館市八幡町3-2
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函館戦争降伏式之地
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本殿
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亀田稲荷神社
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函館薬祖神社
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2019.06.16

箱館戦争9 中島三郎助父子最後の地

箱館戦争時、五稜郭から南へ1.2KM南の千代ヶ岡陣屋で、1869年5月16日新政府軍の降伏勧告を拒否して長男;恒太郎、次男:英次郎と戦い戦死する。享年49歳。徳川家への忠誠をつらぬき、「ラストサムライ」と言われています。

彼らの功績を残すためこの地が中島町と呼ばれています。


地図8 函館市中島町36-12
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中島三郎助父子最後の地
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千代台陸上競技場
(この中に陣屋跡があります)
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