カテゴリー「歴史史跡」の記事

2018.09.23

京都 高瀬川沿い史跡9/9  土佐藩邸跡 土佐稲荷

高瀬川沿い史跡の最終回です。


10 土佐藩邸跡
11 土佐稲荷

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土佐藩邸跡
中京区木屋町通蛸薬師(たこやくし)西南角
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藩邸が置かれたのは江戸元禄(1690年)、高瀬川に橋がかかっていました。

近くには、龍馬寓居・海援隊事務所、お龍の住家、中岡慎太郎寓居、龍馬、慎太郎が暗殺された近江屋があります。



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土佐稲荷
中京区木屋町通蛸薬師西入北側
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岬神社とも言い、社伝では室町時代に鴨川の中州の岬(突端)に祠を建てたのが由来とされています。数度の移転後、土佐藩邸内に移されました。
土佐藩士のみならず、先斗町、木屋町などの町人からも信仰を集めていました。



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2018.09.09

京都 高瀬川沿い史跡8 お龍さん住家と龍馬隠れ家酢屋

龍馬の妻:お龍さんの住家と龍馬の隠れ家酢屋を紹介します。

お龍さん住家20
中京区木屋町通り六角下る東側
龍馬隠れ家酢屋9
中京区河原町通り三条下る一筋目東入北側
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お龍さんの住家
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今は、こんな感じになっています
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この場所は、医者をしていた父が亡くなって後にお龍さんと母と妹が住んだ場所です。

お龍さんは、1841年に生まれ、1864年23歳のころに龍馬と出会いました。

鹿児島へ龍馬と行ったのは、1866年3月(25歳)の時です。

1867年11月、近江屋で龍馬が暗殺された後は、高知の龍馬の実家などに行ったりしましたが馴染めず、

横須賀に移り住み、大道芸人をしていた西村松兵衛と再婚します(34歳)。

晩年は、アルコール依存症となり貧困のうちに1906(明治39)年亡くなりました。(享年66歳)

墓は、「坂本龍馬の妻}として横須賀の信楽寺にあります。
(参考資料:Wikipedia)

お龍さんが一番幸せだった龍馬と鹿児島に行った時の霧島神宮にあるパネル
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この88日間の旅行が日本最初の新婚旅行と言われています

霧島神宮
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お龍さんの実家の近くにある
龍馬京都滞在場所「酢屋」(材木商)
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現在も材木商酢屋として営業しておられ、龍馬に関する展示もしておられます。




この場所は、海援隊の京都事務所でもあります
陸奥宗光など海援隊隊士の名前 
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PR:京都の龍馬ゆかりの地紹介本
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2018.09.07

京都 高瀬川沿い史跡7 本間遭難地 古高邸跡

本間精一郎遭難の地と古高俊太郎邸跡を紹介します。

本間精一郎遭難地15
京都市下京区木屋町通り四条上る東側
古高俊太郎邸跡14
京都市下京区西木屋町四条上る
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8池田屋  13中岡慎太郎寓居跡 

12近江屋(龍馬、慎太郎遭難の地)



本間瀬一郎
越後の出身で尊王攘夷派として活動しました。議論では相手を叩き潰してしまうほど才にたけていましたが、途中から酒色に溺れたために志士から嫌われ、1862年、先斗町からの帰りに薩摩・土佐の志士からこの地で暗殺されました。(享年29歳)


遭難の地
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古高俊太郎
古高俊太郎は、梅田雲浜のもとで勤王思想を学び勤王志士とも交流のあった人物です。京都で枡屋湯浅喜右衛門と変名して、福岡藩黒田家御用達「枡屋」を構え、密かに武器を集め、同志と連絡をとったり援助をするなど、多くの志士が集う倒幕活動の拠点となっていました。

しかし、1864(元治元)年6月5日(旧暦)早朝、新選組に捕縛され壬生の屯所で拷問を受け自白させられ、これが、池田屋騒動の端緒となったと言われています。(享年36歳)

古高俊太郎邸宅跡
現在は、和食屋しる幸
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2018.09.05

京都 高瀬川沿い史跡6 武市瑞山と吉村寅太郎の寓居跡

幕末に活躍した志士:武市瑞山(半平太)と吉村寅太郎の寓居跡を紹介します。

武市瑞山6と吉村寅太郎7
京都市中京区木屋町通三条上る東側
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武市瑞山寓居跡
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半平太とも言い、1860年に土佐勤王党を結成して、尊王攘夷に導きました。藩主:山内容堂が土佐勤王党を粛清したため投獄され、1865(慶応元)年に切腹しました。(享年37歳)



吉村寅太郎寓居跡
武市瑞山の隣に住んでいました
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土佐の庄屋の生まれで、武市半平太に影響され、尊譲倒幕活動に加わりました。1863年大和国(奈良県)で天誅組を組織して倒幕の兵を立ち上げましたが、幕府軍の攻撃を受けて戦死しました。(享年27歳)

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吉村寅太郎墓(霊山護国神社墓)
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天誅組合祀墓(てんちゅうぐみごうしぼ)
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2018.09.02

京都 高瀬川沿い史跡5 佐久間象山 大村益次郎

佐久間象山と大村益次郎関連の史跡の紹介です。

佐久間象山信濃国松代藩出身で開国論を唱え、勝海舟や吉田松陰などに教えた。1864(元治元)年、暗殺されました。

大村益次郎周防国(山口県)出身で緒方洪庵に学び、長州藩の軍を指揮しました。1869(明治2)年、暗殺されました。

地図
佐久間象山・大村益次郎遭難の地3
大村益次郎公遺址21
佐久間象山寓居址5
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大村益次郎遭難(左)。佐久間象山(右)
遭難の地碑(地図番号3)

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京都市中京区木屋町通御池上がる西側


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高瀬川沿い案内碑
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佐久間象山寓居5  大村益次郎公遺址21
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佐久間:中京区木屋町通御池下る東側
大村:中京区木屋町御池上る東側



大村益次郎公墓(護国神社墓地)
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護国神社
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2018.08.31

京都 高瀬川沿い史跡4 頼山陽書斎

木戸邸を約300mほど北に行ったところに頼山陽が書斎として使った建物があります。

頼山陽山水処(地図19)
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頼山陽は、大阪出身の江戸時代後期の学者で、「日本外史」「日本政記」「通譲」の三大著作をここで、完成させました。日本外史は、幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。(1832年死去 51歳)
詩吟・剣舞でも馴染み深い「鞭声粛粛夜河を過る~」で始まる川中島の戦い描いた漢詩『題不識庵撃機山図』の作者としても有名です。

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山紫水明處(さんしすいめいしょ)
晩年住んでいたところで鴨川を隔てて、東山三十六峰を一望にできます。
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川中島の戦いで上杉謙信が武田信玄を攻めた時の状況を歌った詩です。
鞭声粛粛夜過河
暁見千兵擁大牙
遺恨十年磨一剣
流星光底逸長蛇


手前の家が山紫水明處がある家です。
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2018.08.17

京都 高瀬川沿い史跡3 木戸・幾松隠れ家跡

高瀬川沿いにある明治維新関連の史跡を北から南に紹介しています。

前回に続いて木戸孝允そして恋人の幾松の記事です。

桂小五郎といった長州藩士時代、芸者だった幾松と親しくなり、長州藩屋敷の近くの幾松の寓居に住んでいました。

木戸・幾松の隠れ家(4)
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桂小五郎・幾松寓居跡
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ビルの裏側に寓居だった建物が残っています。
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料理屋さんになっています
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幾松と桂小五郎
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木戸孝允雅号松菊の由来(クリック拡大)
木戸は、中国の詩人:陶淵明(とうえんめい)を尊敬しており、彼の詩の中の「帰去来の辞」の一節から木戸の屋号「松菊」をつけました。
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桂と幾松が住んでいた部屋
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桂が新選組に追われた時に幾松がこの長持ちの中に桂を隠しました
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寓居は、料理屋さんになっています
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幾松は、木戸と結婚して松子となり、木戸が亡くなると剃髪して京都に住みました。44歳で亡くなりました

護国神社にある木戸・松子の墓
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(クリック拡大)
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2018.08.13

京都 高瀬川沿い史跡2 木戸孝允宅

高瀬川沿いにある明治維新関連の史跡を北から南に紹介しています。

 

今回は、木戸孝允(きどたかよし)が住んでいた場所です。(地図1、2、17)

木戸孝允は、長州藩士で尊王攘夷、倒幕運動の指導的役割をはたしました。

桂小五郎と名乗っていたのは幕末ころで、明治になってから木戸孝允を名乗っていたようです。

高瀬川沿い史跡地図
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1 桂小五郎銅像
2 長州藩邸
17 木戸孝允の住居

長州藩邸横にある桂小五郎銅像Photo


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長州藩邸跡
京都ホテルが建っています
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桂小五郎銅像より北に上がったところ(地図:17)に桂が明治以降住んでいた場所があります。

木戸孝允宅
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こじんまりとした建物で、茶室として使われていたのではと考えられています。

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ここは、公家五摂家の近衛家の下屋敷で木戸が譲り受け邸宅にしました。庭の東側には、鴨川や東山の山並みが広がっていました。

元木戸孝允宅(旅館いしちょう)
こちらが母屋で「木戸孝允旧跡」の碑があります
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「明治天皇行幸所木戸邸」の碑が建っています。
木戸は、1877(明治10)年にこの家で亡くなりました(享年44歳)。明治天皇が木戸の病気見舞いに訪ねられた石碑です。

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木戸邸の横にある建物で現在は、京都職員会館「かもがわ」として使われています。



達磨堂
木戸邸の隣にある建物で、息子・忠太郎(養子)氏のコレクションの達磨を収納されています。
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下村崋山筆
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2018.08.06

京都 高瀬川沿い史跡 1 川由来 角倉了以

京都の高瀬川沿いには、明治維新に関係した人物の史跡が沢山あります。今回からは、そんな史跡を紹介していきます。

高瀬川は、江戸時代初期に角倉了以(すみくらりょうい)によって開通され、中京区上樵木町を起点として京都と大阪の交易に寄与しました。

 

高瀬川の江戸時代初期(17世紀)の頃は、木材、練炭が高瀬舟に積まれて集まり、川沿いには、材木問屋、材木商の店、倉庫が立ち並びました。そこからこの辺りを「木屋町(きやまち)」と呼ばれました。

 

江戸中期(18世紀)には、人の往来が増え、料理屋、旅館、酒屋などの店が増えました。

 

幕末(19世紀)には、この辺りは繁華街になり、勤王志士の密会場所となり、坂本龍馬や桂小五郎などの寓居があり史跡が建っています。

 

高瀬川沿い地図
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18:一の舟入が高瀬川の起点です。
10:七の舟入
舟入とは、船の荷物の積み下ろしや方向転換を行う場所。二条から四条の間に9カ所作られていた。


高瀬川について(クリック拡大)
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一の舟入(地図18)
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高瀬川は、水深が浅いことから船底が平らな船が造られました。


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舟入の 灯影に明くる 春の雪





七の舟入(地図10)
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角倉了以像(地図16の辺り)
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鴨川から水を引き、伏見・二条間をつなぐ高瀬川を施工した嵯峨の豪商



角倉了以別邸
中京区木屋町通二条下る東側
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現在は、和食がんご寿司店になっています。
以前には、長州藩軍人:山形有朋の住居
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森鴎外の短編小説に「高瀬舟」があります。
京都の罪人を遠島に送るために高瀬川を下る舟に、病気の弟を殺した喜助という男が乗せられた。護送役の同心である羽田庄兵衛は、喜助がいかにも晴れやかな顔をしている事を不審に思い、訳を尋ねます。 苦しがる弟を殺すのは罪なのかと安楽死ともう一つのテーマーについて書かれています。

 


2018.06.22

龍馬,慎太郎墓 護国神社

龍馬、慎太郎、藤吉の葬儀は、近江屋で行われ、霊山護国神社墓地に埋葬されました。

護国神社墓地の龍馬、慎太郎、藤吉の墓
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坂本龍馬が襲撃を受けた様子が詳しく記載されています。
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龍馬銅像
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護国神社墓地には、志士の墓が多数あります

木戸孝允(たかよし)と磯松(いくまつ)の墓 
長州藩外交担当
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「西郷よ、もうたいていにせぬか。」
の言葉を残して病死 享年:45歳



高杉晋作と長州藩士の墓
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大村益次郎(ますじろう)
長州藩士 軍事総責任者
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吉村寅太郎と天誅組の墓
土佐藩士 尊王攘夷派
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孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるよう天誅組を組織する。日本で初めて倒幕を掲げて戦った。享年:27歳



墓石が整列されて並んでいます
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霊山護国神社
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京都霊山護国神社地図

 

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