カテゴリー「歴史史跡」の記事

2017.03.08

琵琶湖 竹生島

竹生島は琵琶湖の北端近くに浮かぶ島で、周囲2キロメートル、面積0.14平方キロメートルほどの小島で、島の周囲は南東部にある船着き場を除いてほとんどが急な断崖になっている。島には宝厳寺と都久夫須麻神社の他にはみやげ物店が数軒あるだけで、信仰の島です。

現在は宝厳寺と都久夫須麻神社という「寺」と「神社」に分かれていますが、このように区別されるようになったのは、明治時代初期の神仏分離令以降のことであり、竹生島では平安時代から近世まで神仏習合の信仰が行われていました。


平家物語7巻「竹生島詣」 
平家が北陸の木曽義仲を倒すために北国へ下向しました。その途中で、平経正(つねまさ)が竹生島に行ったことが記されています。

 ある朝、平経正が、琵琶湖のほとりに出て、遥か沖に見える島を見渡しました。経正は、供をしていた藤兵衛尉有教を呼び、「あれはなんという島だ」と問いました。有教の答えは「あれこそ、うわさに聞こえる竹生島です」。経正は、「そうか、そんなこともあるのか。それなら、いざ参ろう」と、有教、安衛門尉・守教以下の侍6人を連れ、小舟に乗り、竹生島へ行きました。

 時候は、卯月(4月)の18日、新緑の梢はまだ春の名残をとどめ、深い谷のうぐいすの声はなくなろうとしていますが、初音がういういしいホトトギスが今を盛りに声を響かせ、藤の花が松の木にからみつき、たいへん趣のある様子でした。

 経正は急ぎ船から降りて、岸に上がりました。竹生島の景色に触れ、心をつまらせ、声を失いました。

※1184年(寿永3年)のことです
経正は、平敦盛の兄、平清盛の甥にあたる。 琵琶の名手で、平経正の塚とされる琵琶塚( 兵庫県神戸市兵庫区)があります。


竹生島の南東部にある船着き場



長浜のここから船は出ます
Img_9711_r

秀吉が造った長浜城が見えます
Img_9714_r


竹生島に到着

Img_9725_r

Img_9730_r


船着き場から急な階段を一気に登っていきます



鳥居の下にある案内板





鳥居からまだ急な階段を登っていきます



やっと宝厳寺弁財天にたどり着きました
なかなか見ごたえのある建物です

Img_9761_r

宝厳寺
2_r

渡り廊下
Img_9793_r

Img_9802_r

4

三重塔
35_1


厳島神社




瓦投げ
宮崎鳥居の両脚の間に瓦を投げることができると龍神様が願いをかなえてくださるそうです。瓦2枚で300円です。
1_r_2

Img_9779_r

_r


琵琶塚(兵庫県神戸市兵庫区)
琵琶の名手であった平経正の塚

2016.11.24

石田三成史跡5/6 供養塔

秀吉の死後、多くの大名は、徳川になびいていったが、三成は、秀吉の恩義を忘れることなく、豊臣の後継者:秀頼を守って関ヶ原で、徳川家康と天下分け目の一線を交えるが、小早川秀秋の裏切りで敗れました。そして、捕えられ京都四条河原で処刑されました。享年41歳

徳川幕府の追及を逃れるため石田町には、石田姓は一人もいなくなり、石田一族の墓は破壊され、村人によって埋められましたが、1973(昭和48)年に、八幡神社東側に、掘り起された石田一族の墓を集めて「石田三成公一族及家臣供養塔」を建立しました。

 

三成公供養塔&八幡神社

(滋賀県長浜市石田町548)

八幡神社は石田会館の右隣です。八幡神社は、近くの町にもありますので、間違いのないようにしてください。

 

石田地図

 

供養塔碑

 

石田三成一族及家臣供養塔

供養塔

 

三成辞世の歌

辞世の歌

「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と

    ともに消えゆく 我が身なりけり」
筑摩江にともるかがり火が消えるように、自分も消えていくのだな・

※ 筑摩とは、現米原市の地名。  

※ 芦(琵琶湖のヨシ)

 

 

自筆歌

左:石田三成公自筆の歌
  残紅葉 散り残る紅葉は ことにいとおしき
  秋の名残は こればかりぞと
右:残照の空に あづけし柿一つ

 

板




奥の石碑あたりから石田一族の墓石が出土しました。

石棺の蓋(300m離れた川にかけられていた橋で石棺の一部だったことがわかりました)

墓石出土

 

石棺板

 

八幡神社の中に石田神社があってそこに供養塔はあります。

石田神社

 

案内板がありますから分かりやすいです

案内

 

道路から見ると供養塔・八幡神社は、木で覆われています

場所

 

八幡神社(三成供養塔はここにあります)

八幡神社

 

八幡神社2

 

八幡境内

2016.11.06

石田三成史跡4/6 観音寺

石田三成物語3で、三成は修業していた観音寺で、秀吉に会って、三献の茶でその才能を認められた話を書きましたが、今回は、その観音寺についての記事です。

三成人気が出ていますが、それは、大河ドラマ「真田丸」で石田三成を山本耕史(こうじ)さんが演じておられ、なかなかの好演だからです。そして、演じる心構えを次のように言っておられます。

『三成のイメージは、豊臣政権を支えるために、聡明で冷静に仕事を進めていくイメージですので、端明、明閣で、余計なことは言わず、余計な仕草をしない感情のないロボットのような感じを出すようにしていますが、実は、自分の才能を見つけてくれた秀吉のために、そして、秀吉の死後は、豊臣政権の復権のために最後まで生き抜いていく熱い男を演じ切って行きたい』と言っておられます。

 



三成ポスター

 

佐和山城

1591年、三成31歳の時、佐和山城19万石(近江北部)の大名となった。



観音寺地図

地図

 

板

寺は、770年ころ、伊吹山で創立されました。1347(貞和3)年に現在地に移されました。

鎌倉、室町時代は、この地の領主であった佐々木氏、戦国期には、浅井家、長浜城主時代の羽柴秀吉、江戸時代には、彦根藩井伊氏の所領として、保護されてきました。

 

惣門

惣門

 

惣門を入ると本堂まで一本道です。
左に行くと秀吉に献じたお茶を点てた水が湧き出ている井戸があります。

入口

 

道路

 

階段

 

本堂
本堂

 

薬師堂

 

薬師堂
薬師堂

 

鐘楼
鐘楼

 

惣門の前から、伊吹山が見えます。
伊吹山

 

紫陽花

 

観音寺地図

2016.11.03

石田三成史跡3/6 秀吉との出会い 

三成の少年期は、近くで織田信長と浅井長政が激突した姉川合戦〔1570(元亀元)年】の戦場の近くに住んでいたため、多感な少年佐吉(三成幼年期名)に大きな影響を与えたと思われます。三成は、家から東へ1.5Kいったところの観音寺へ学問修行のために預けられていました。

そして、ここで三成の人生を決定づけた秀吉と出会います。

観音寺(三成屋敷:石田会館は左へすぐ)

 

観音寺門(三成が秀吉に出会ったお寺)

観音寺

お茶板

三成展(観音寺境内)

資料館

水の文字を描くことで火災から建物を守るおまじないです。

水

三成の三碗三温のお茶
鷹狩の途中、観音寺に立ち寄った
秀吉は「長浜の秀吉じゃ、お茶を一服所望したい」
居合わせた三成は、ぬるめのお茶を大茶椀になみなみと入れて差し出した。
二杯目は中くらいの茶碗でやや熱めのお茶を、
三杯目は、先にお菓子を出し、茶は小さい茶碗に熱いお茶を入れて差し出しました。
秀吉は、三成のその対応に感嘆して、小姓として召し抱えました。

三椀

観音寺境内に水汲みの井戸があります。

井戸案内

お茶を献じた水汲みの井戸

お茶井戸

お茶板

井戸の横にある池

池

三成展会場

資料室

三成と大谷吉嗣

三成チョット格好よすぎですが。

顔だし

長浜駅前の三献の茶の銅像

長浜駅

2016.10.29

石田三成史跡2/6 石田屋敷(石田会館) 

三成の屋敷跡に、三成の資料を展示、保存した「石田会館」があります。

41_r

会館内の庭に銅像と碑がたっています40_r


Photo


Photo_2


4


西郷隆盛が詠んだ漢詩
2_r


Photo_4

三成公顕彰歌
4_2




石田会館内では、三成展が開かれています。
Photo_5


37_r


20_r


三成肖像画
Photo_6



1600年、関ヶ原で敗れた三成は、その後、伊吹山から北近江へと逃れましたが、捕捉され、京都の六条河原で打ち首になり、三条大橋のたもとでさらされた後、大徳寺に埋葬されました。


処刑されるときの三成の逸話があります。
三成は警護の人間に喉の乾きを訴え水を所望したのに対し、

警護の武者は
「水は無いが、柿がある。代わりにそれを食せ。」と答えた。

これに対し三成は
「柿は痰の毒であるのでいらない。」と答えた。

それを聞いた警護の武者は嘲笑しながら
「すぐに首を切られるものが、 毒断ちして何になる。」と言った。

三成は、泰然として言いました、
「大志を持つものは、 最期の時まで命を惜しむものだ。」


三成公頭蓋骨

三成の遺骨が、明治40年(1907)、300年ぶりに大徳寺の墓地から、発掘され、頭蓋骨、大腿骨、上腕骨など一体分の骨が出てきました。
これを京都大学の教授が、継ぎ合わせて復元し、頭蓋骨の石膏模型を作りました。
●そこから想像される三成は、
・一見して女性と間違うほど華奢であった。
・顔は当時としては珍しい細面で、頭は前後に出た才槌頭(さいづちあたま)であった。
・鼻は高く隆起し、鼻筋の通った優男タイプであった。

・かなりひどい反っ歯であった。
・身長は、156cm


Photo_7

Photo_8


三成が真田信之(真田家長男)に送った書状
4_4





4_3


三成の居城
4_5


佐和山城地図(滋賀県彦根市)

2016.10.27

石田三成史跡 1/6 出生の地

石田三成は、1560(永禄3)年、長浜市石田町(坂田郡石田村)で石田正継の次男として 生まれた。 幼名は佐吉。父正継は浅井の家臣でした。

石田家屋敷跡(石田会館)

三成屋敷跡
Photo

石田家は、この辺りの豪族で屋敷も石田会館~産湯の井戸辺りの約1町4反(約東京ドームグラウンド部分と同じくらい 約14000㎡)ぐらいあったと言われています。この地域の小字名は、三成の官命をとって「治部」と言って、俗称「ごいで」とも言われています。

小字名治部{ごいで」と書かれています。石田会館内

17_r

屋敷の北側に、産湯の井戸が残っています。

交差点から北へ行き左に曲がるとあります。
3_r


4_r


Photo_2

現在は、石田会館になっていますが、石田三成屋敷跡で、このあたりが屋敷の南にあたるようです。
4_r

Photo




屋敷跡の一画に治部池があり、奥に治部清水が湧き出ています。(石田会館内)

Photo_2


Photo_3

現在の石田町の中心の交差点は、石田家の屋敷内で、その碑が建っています。
石田のバス停は、「出会いの広場」になっています。
7_r


10_r

三成電燈
三成旗印とお茶を献じるところが描かれています。
4_2


三成の家紋
「大一大万大吉」は、源平合戦の時代に木曾義仲を討ち取った石田次郎為久が使ったものを、三成が気に入って旗印にしました。

これは、「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という三成の考えを表しています。

19_r








交差点は、石田家の屋敷内にあって、東に向かって行き、山を越えると三成が秀吉に会った観音寺があります。
9_r


西を向いており、この先には長浜城があります。
Photo_4


町の中には三成に関する史跡の案内板が建っていますので分かりやすいです。
Photo_5


Photo_6

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

紹介ブログ

book

カテゴリー