義経 打倒平家86 義経その後
義経は、死なない、北の方に行って再起の時期を待った北行伝説が語り継がれています。
文治5年閏4月30日(1189年6月15日) に奥州衣川の館で源義経は死去したとされているが、人々の生きていて欲しいという願望と、自決後の義経の首の搬送期間が不自然に長かったことなどから、
実は生きて逃亡したのではないかという疑念や期待が「義経不死伝説」を産んだ。
室町時代以降、「判官びいき」と「義経不死伝説」が「御曹司島渡」説話と結びつき、「義経北行伝説」となった。実は蝦夷地にわたったという伝説「源義経北行伝説」へと進化した。そして其れは様々な誤解と伝説と虚説、あるいは捏造の書物を生み出した。
江戸時代に源義経は蝦夷のアイヌたちの棟梁に突如成り、金国の将軍に昇格し、ついには清国の祖になった。この「義経=清朝清祖説」は江戸時代から明治まで夏目漱石の小説「吾輩は猫である」の中で語られていて判るように、一般民衆に長く信じられた。
そしてついに明治になってチンギス・ハン(成吉思汗 1162年5月31日? - 1227年8月25日?)モンゴル帝国の初代皇帝 )となる。そして小谷部全一郎の『成吉思汗は源義経なり』は戦地で実際に配られ、「満蒙は国家の生命線」と大正から昭和にかけ先の大戦中、大陸の侵略に利用された。
(参考;Wikipediaより)
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