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義経は、死なない、北の方に行って再起の時期を待った北行伝説が語り継がれています。
文治5年閏4月30日(1189年6月15日) に奥州衣川の館で源義経は死去したとされているが、人々の生きていて欲しいという願望と、自決後の義経の首の搬送期間が不自然に長かったことなどから、
実は生きて逃亡したのではないかという疑念や期待が「義経不死伝説」を産んだ。
室町時代以降、「判官びいき」と「義経不死伝説」が「御曹司島渡」説話と結びつき、「義経北行伝説」となった。実は蝦夷地にわたったという伝説「源義経北行伝説」へと進化した。そして其れは様々な誤解と伝説と虚説、あるいは捏造の書物を生み出した。
江戸時代に源義経は蝦夷のアイヌたちの棟梁に突如成り、金国の将軍に昇格し、ついには清国の祖になった。この「義経=清朝清祖説」は江戸時代から明治まで夏目漱石の小説「吾輩は猫である」の中で語られていて判るように、一般民衆に長く信じられた。
そしてついに明治になってチンギス・ハン(成吉思汗 1162年5月31日? - 1227年8月25日?)モンゴル帝国の初代皇帝 )となる。そして小谷部全一郎の『成吉思汗は源義経なり』は戦地で実際に配られ、「満蒙は国家の生命線」と大正から昭和にかけ先の大戦中、大陸の侵略に利用された。
(参考;Wikipediaより)
義経の絶頂期が須磨寺であって、終焉の地がここ高舘義経堂です。
平泉地図
1189(文治5)年、義経は、頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡の子:4代泰衡の急襲にあい、この地で妻子を殺害し、自害したと言われています。この義経堂は、1683(天和3)年に仙台藩主:4代伊達網村公が建立しました。
義経像
高舘義経堂
義経主従供養塔
階段を登ったところが義経堂です。
義経堂から見た北上川と束稲山(たばしねやま)
束稲山とは経塚山、音羽山、束稲山の三つの山の総称。
この階段を登って行くと眼下に北上川の見える所に出ます。
夏草や 兵共が 夢の跡(芭蕉)
頼三樹三郎詩碑
須磨寺 義経腰掛松の記事は こちらから
今から900余年昔の平安時代、奥州藤原氏によって築かれた平泉、初代藤原清衡(きよひら)は、恒久平和を願って中尊寺を建立、二代基衡(もとひら)は、大伽藍や浄土庭園を配した毛越寺を造るなど仏都づくりに努め、三代秀衡(ひでひら)は、無量光院などが建つ仏教都市を出現させ、さらに柳の御所などを整備して行政都市の機能を高め、「北方の王者」として絶頂期を迎えました。そのころ、都では、源氏と平家が中央の権力を争い、平家を倒した義経をかばった四代泰衡(やすひら)は、源頼朝によって滅ぼされてしまい、栄華をほこった藤原氏も滅亡してしまいました。
(参考資料:パンフレット岩手宝国)
中尊寺は、駅から約2Kのところにあります。
金色堂
1124(天治元)年の造立。ご本尊は阿弥陀如来、堂全体を金箔で覆い、極楽浄土を表しています。金色堂は覆われています。中央に初代清衡公、左に二代基衡公、右に三代秀衡公の御遺体と四代泰衡公の首級が納められています。
旧覆堂
本堂
芭蕉句碑
夏草や 兵どもが 夢の跡
(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
五月雨の 降のこしてや 光堂
(さみだれの ふりのこしてや ひかりどう)
1689(元禄2)年5月(新暦6月)に、芭蕉(46)と曽良(41)は奥の細道の旅で平泉を訪れています。
平泉駅
中尊寺の地図は こちら
義経は、1185年、壇ノ浦の戦いで、平家一族を滅亡させるが兄:頼朝と対立して頼朝の追手に追われて逃げ回った。義経は、若い頃に住んでいた奥州平泉(岩手県)へ逃亡し、藤原氏3代目秀衡の保護を受けようとした。
毛越寺(もうつうじ)
寺伝によれば850年(嘉祥3年)、中尊寺と同年に円仁が創建。その後荒廃したが、奥州藤原氏第2代基衡、および、第3代秀衡が壮大な伽藍を再興した。中世の歴史書『吾妻鏡』によれば、「吾朝無双(我が国で並ぶものがない)」と評された。
(Wikipedia)
夏草や 兵どもが 夢の跡