宮本武蔵 巌流島の決闘
宮本武蔵対佐々木小次郎
「武蔵!遅参とは何事か。臆したか。」
というや物干し竿を抜き放ち鞘は波間へ。
それを見た武蔵はにやりと笑いこう叫んだ。
「小次郎破れたり!」
巌流島
関門海峡に浮かぶ巌流島の正式名称は「船島」。下関市の彦島江の浦東岸250mにある無人島です。
この島で、1612(慶長17)年4月13日に宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘し、敗れた佐々木小次郎の流儀「巌流」をとって巌流島と呼ばれるようになりました。 また、4月13日を決闘の日としています。
《 地図 》
巌流島へは、下関唐戸から10分ほどで行けます。
決闘
遅れてやってきた武蔵は、櫂(かい)の木刀をひっさげ素足で舟から降り立った。小次郎は武蔵が近ずくと長刀を真っ向に振りたて、眉間(みけん)めがけて打ちおろした。同時に武蔵も櫂の木刀を打った。その木刀が小次郎の額にあたり、たちどころに倒れた。小次郎の打った刀は、その切先が武蔵の鉢巻の結び目に触れ、鉢巻は二つになって落ちた。武蔵は倒れた小次郎を見つめ、又、木刀を振り上げて打とうとする瞬間、小次郎が刀を横にはらった。武蔵の袴のすそを三寸ばかり切り裂いた。が、武蔵の打ち下ろした木刀は、小次郎のわき腹、横骨を打ち折った。
小次郎は気絶し、口鼻から血を流した。武蔵は手を小次郎の口鼻にあてがい、死活をうかがい、一礼して立ち去った。
(「二天記」より)
宮本武蔵
生まれは、兵庫県とも岡山県とも言われる。太刀を右手に小刀を左手に持ち自在に操る二天一流。13歳で初決闘、その後多くの試合に勝って来たが、謎につつまれている。
佐々木小次郎
出生地、年齢などほとんど謎。自ら巌流という流派を起こし、刃渡り90cm以上の長刀を操る。頭上から一気に振り下ろし剣先をひるがえして下から切る「燕返し」を得意とした。
佐々木巌流の碑
巌流島の名前は小次郎の流派の名前。島の正式名は船島
この島に 二人降り立ち 闘ひし
むかしの男 恋ほしかるかな
森重 香代子
武蔵出陣の地
小次郎の物干し竿に対すべく武蔵は行きの船上で櫂を削る。仕合開始が午前8時にも関わらず陽が高く昇りきったころ武蔵は舟島に向かった。
巌流島から武蔵船出の地を望む
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