宮本武蔵出生地1 高砂説宮本説
宮本武蔵の出生地1 高砂説宮本説
宮本武蔵の生まれた場所には、色々な説があります。歴史上の宮本武蔵は、その伝記に不明な点が多く、生まれた土地や生没年も謎に包まれています。武蔵自身は、五輪書の中で「生国播磨の武士・・・」と書いています。
●高砂説 ●宮本説 ●作州説
高 砂 説
米田天神社 ≪地 図≫
兵庫県高砂市米田町米田
武蔵の養子伊織が加古川市の泊神社に献上したとされる棟札(とうさつ)等が根拠になっています。
宮本 武蔵 ・ 宮本 伊織 生誕の地
(幅・約6m 高さ・約3m)
宮本一族が武蔵・伊織の生誕の地と認めた碑
武蔵の養子伊織が改築した泊神社(兵庫県加古川市木村)の棟札(とうさつ)には、「作州(岡山県英田郡(あいだ)大原町)に新免という武士があり世継ぎがないまま死んだ。その遺志を継いだのが武蔵で、後に宮本と氏を改める。武蔵には子供が無く、伊織(武蔵の兄の子供)を養子にし、伊織も宮本姓を名乗った・・・」とあります。この資料から田原一族が住んでいた米田(兵庫県高砂市米田)で武蔵は生まれ、、新免の跡を継いで宮本姓を名乗ったのが、真説かと思われます。
泊神社の棟札は、1961年(昭和36年)に発見された。広く世に伝わっている武蔵像は、吉川英治著「宮本武蔵」からで、この書が書かれたのは、1935年(昭和10年)であった。
※棟札とは、建物の棟上の際に、建造の年月日や施主などが記され、天井の棟木などに打ち付けられた板札のこと。古文書のみでは分からなかった地域の歴史なども読み取ることができる。
泊神社(とまり)
1653年(承応2年)、宮本武蔵の甥で養子の宮本伊織が、小倉藩筆頭家老に就き、故郷の当宮を武蔵の供養の意を込め浄財を寄進し全社殿を再建した。
本殿裏の二基の灯籠は、宮本伊織と田原正久が寄進した。
田原家屋敷跡
このあたりは、庄屋であった田原家の土地の一部であったとされている。
天正十年(1582)に武蔵は生まれる。武蔵は、後に養子にした伊織の父の弟で、作州宮本無二之助一直の養子となった。
兵庫県加古川市木村 ≪地 図≫
宮 本 説
宮本武蔵生誕地の碑(石海神社前)
兵庫県揖保郡太子町宮本162
≪地 図≫
地誌「播磨鏡」に『損東郡鵤ノ庄(いかるがのしょう)宮本村の産なり』とあります。
宮本武蔵、損東郡鵤ノ庄(いかるがのしょう)宮本村の産なり。若年より兵術を好み諸国を修業し、天下にかくれなく則武蔵流と云いて諸士に門人多し、然れども諸侯に仕えず明石に至りて小笠原右近将監督候に趣き玉ふとき同伴し、養子伊織に五千石を賜りて大老職に任官す。今に其子孫孫三千石にて家老職と云・・・。
※【播磨鏡は地誌で、1762年(宝暦12年)に播磨国の神社・仏閣・名所古跡・人物・物産・風俗・古老の伝承等を記載した書物です。】
《二刀流について》 著者:早乙女 貢 「新編 実録・宮本 武蔵」より
『武蔵は、「・・・兵法の道、二天一流と号し」て、「この一流二刀と名付ける事」といい、二刀の利点を述べてはいるが、”まず片手にて太刀を振り習はんために、二刀として、太刀を 片手にふり憶ゆる道也”とある。腕を鍛えるためだというのだ。・・・・・一刀よりも二刀が便利だと思うのは、二挺拳銃くらいしかない。刀というものを考えていない証拠だ。刀というものが 如何に重いか。サーベルとは違う。三尺前後の太刀を、片手で持って骨まで切り下げるというのは、相当な膂力(りょりょく)の持ち主でなければ難しいのだ。右の太刀で人を斬り、左の 脇差でも人を斬るというのが容易だったら、一人二役だから二刀流の名人というのが輩出したはずである。・・・』
« 宮本武蔵 巌流島の決闘 | トップページ | 宮本武蔵出生の地2 作州説 »
「歴史史跡」カテゴリの記事
- 宮本武蔵出生の地2 作州説(2022.04.17)
- 宮本武蔵と明石(2022.04.18)
- 宮本武蔵出生地1 高砂説宮本説(2022.04.16)
- 宮本武蔵 巌流島の決闘(2022.04.15)
- 織田信長の子孫はどうなった(2021.02.10)
コメント