宮本武蔵出生の地2 作州説
宮本武蔵出生の地 作州説
作 州 説
岡山県英田郡大原町宮本 ≪地 図≫
吉川英治著「宮本武蔵」の中で作州讃甘村(さのもむら 岡山県)と書かれています。
父は、兵学の指南役で幼少の武蔵に得意の十手術を教えた。当時から体格の良かった武蔵は近郷きっての暴れん坊に成長する。
宮本武蔵生家
約60m四方の大きな茅葺の家であった。S17年に火災にあい、現在の瓦屋となる。1584年(天正12年3月)この地にて父:無二斎、母:お政の二男として生まれる。
讃甘神社(さのも)
関が原の戦いのあと、帰郷の途中、播州境の木戸を破ったことにより追われ、宮本村に帰って、讃甘の山に隠れていた。その地名が残っている。
宮本武蔵駅前にて
武蔵、お通、又八
初決闘の場 ≪地 図≫
武蔵13歳の時、播州平福で新当流有馬喜兵衛と口論の末、一刀の元に打ちはたし、そのまま武道終業の旅に出る。
(5輪書に書かれています))
《 武 蔵 の 初 決 闘 》 著者:直木 三十五 「日本剣豪列伝」より
『・・・といっているうちに、弁之助(武蔵の少年時代の名)が、づかづかと、入ってきて、「喜兵衛とは、その方か」と、怒鳴った。十三歳と聞いて(何の子供が)と、世間の十三の 子供を描いていた有馬は、余りに大きいのに(これが十三か)と、思いつつも「よう参った」と、声をかけると、弁之助は「勝負」と、叫んで、有馬を打った。喜兵衛は、その振舞いに 「何を致す」さっと抜き打ちにーーー弁之助は、手早くかわして、棒をすてると、無手(むず)と、喜兵衛に組みついて「あっ」と、人々も、有馬もいう瞬間、有馬を頭上へ差し上げると、 力任せに、大地へ叩きつけた。起き上がれずに、もがく有馬の背や、頭を、棒を拾って「どうだ、どうだ」と、つづけざまに、その性来の大力で打ったから、有馬は動かなくなって しまった。頭も血塗れ(ちまみれ)であった。・・・』
平福宿場通り
川に沿って南北に通る宿場町。武蔵の初決闘の場所は、ここより南側の金倉橋のたもと平福の松原であった。1597年(慶長2年)のことでした。
竹山城址
1493年(明応2年)、新免伊賀守貞重によって築城される。武蔵の祖父平田将監が家老とし、又、父平田武二斎が剣道師範として仕えた場所です。
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