義経 打倒平家75 腰越
1185年(元暦2年)、壇ノ浦で平家を滅ぼした義経は、平家の総大将平宗盛と嫡男清宗を連れて、鎌倉に凱旋しようとしたが、兄頼朝から鎌倉に入ることを許されず、満福寺に一時身を置いていました。
満福寺所有の腰越状は、弁慶が書いたと言われています。
鎌倉市腰越2-4-8(地図)
義経と弁慶
【平家物語 腰越】
日数が経って同・二十三日、義経殿が鎌倉へ到着したが、梶原平三景時は義経殿より一日早く発っており、頼朝殿に今、日本国中の人々は残らず殿に従っております。しかし、弟君の九郎大夫判官義経殿だけは、最後の敵となるように思われます・・・・・・
義経殿はいろいろ陳情したが、景時が告げ口をしたので頼朝殿は却下された 。宗盛殿・清宗殿父子をお連れして急いで京へ帰るようにとのことで、六月九日、また宗盛殿・清宗殿父子を預かって都へ戻られた。
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)
鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社。
鎌倉市雪ノ下(地図)
白旗神社
「義経 打倒平家」カテゴリの記事
- 義経 打倒平家86 義経その後(2022.05.13)
- 義経 打倒平家81 義経妻子墓(2022.05.03)
- 義経 打倒平家84 弁慶堂(2022.05.09)
- 義経 打倒平家80 毛越寺(2022.05.01)
- 義経 打倒平家83 中尊寺2(2022.05.07)
コメント