義経 打倒平家79 北陸源平 皆鶴姫
皆鶴姫の碑(みなづるひめ)
平安時代末期に源義経が奥州平泉(現在の岩手県平泉町)に下向した際、京都で恋仲となった皆鶴姫が義経を追って二人の間の子供である帽子丸を連れて当地を訪れました。
平家の追討を受けていた事から、帽子丸は捕縛され沼(帽子沼)に投げ捨てられ溺死(享年2歳)、皆鶴姫は追ってから逃れたものの、疲労困憊となり、難波池で自分の姿が余りに醜く映り、義経に追いつく事もかなわない事から身投げしてしまいました(享年18歳)。その報を聞いた義経は急いで戻り難波池の畔に葬り墓碑を建立したと伝えられています。
義経は2度奥羽の藤原氏を頼っています。一度目は平清盛に追われ、2回目は頼朝に追われています。
福島県会津若松市河東町倉橋字藤倉 (地図)
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