義経 打倒平家76 平家終焉
平家終焉の地
1185年3月、壇ノ浦の合戦で敗れた平家一門は、安徳天皇をはじめとしてことごとく入水、戦死しました。しかし、建礼門院、総大将:平宗盛、息子:清宗は捕えられました。宗盛父子は、義経によって頼朝のいる鎌倉に連れていかれましたが、勝手に官位をもらった義経は鎌倉に入れてもらえず、京に引き返しました。
京まであと一日のここ篠原の地で、義経は京に平家総大将の首を持ち帰るため処刑いたしました。その首を洗った池が「首洗い池」としてあります。
国道8号線から少し入ったところにあの栄華を極めた平家の終焉の地がひっそりと風雪に耐えて残っています。
所在地:滋賀県野洲市大篠原 (地図)
平宗盛と息子清宗の墓
【平家物語】
宗盛殿もこの聖こそ仏道への案内者だと思われ、すぐに妄念を翻し、西に向かって手を合わせ、声高に念仏しておられるところに、橘右馬允公長が太刀を構えて、左の方より背後に回ってまさに斬ろうとしたとき、宗盛殿は念仏を止め、合掌の手を返し
宗盛「もう清宗も斬ったのか」
と言われたことが哀れであった公長が背後へ回った見えた瞬間、首は前に落ちた。
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清宗殿は、仏道へ導いてくれるの本性房湛豪に向かってところで
清宗「父の最期はどのようでしたか」と尋ねられると
「ご立派でしたご安心召され」と答えたので、
清宗殿はもうこの世に思い残すことはない
清宗「さあ、早く斬れ」
と首を伸ばして討たせられた今度は堀弥太郎景光が斬った。
義経殿が首を持たせて都へ上られ、骸を公長の指図で、親子をひとつの穴に埋めた、これは宗盛殿があまりに懇願したからでした。同・二十三日、武士や検非違使が三条河原に出向き、平家の首(宗盛と嫡男清宗)を受け取った。三条を西へ、東洞院を北へ引き回し、獄門の左に生える栴檀の木に掛けられた。
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