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皆鶴姫の碑(みなづるひめ)
平安時代末期に源義経が奥州平泉(現在の岩手県平泉町)に下向した際、京都で恋仲となった皆鶴姫が義経を追って二人の間の子供である帽子丸を連れて当地を訪れました。
平家の追討を受けていた事から、帽子丸は捕縛され沼(帽子沼)に投げ捨てられ溺死(享年2歳)、皆鶴姫は追ってから逃れたものの、疲労困憊となり、難波池で自分の姿が余りに醜く映り、義経に追いつく事もかなわない事から身投げしてしまいました(享年18歳)。その報を聞いた義経は急いで戻り難波池の畔に葬り墓碑を建立したと伝えられています。
義経は2度奥羽の藤原氏を頼っています。一度目は平清盛に追われ、2回目は頼朝に追われています。
福島県会津若松市河東町倉橋字藤倉 (地図)
安宅関(あたかのせき)
壇ノ浦で平家を滅ぼした義経を兄:頼朝は警戒しはじめ義経を捕らえようとする。義経は、奥州平泉の藤原氏のもとへ落ち延びようとして北陸道を北上しました。
1187年3月(文治三年)ころ、山伏姿に変装した義経主従一行が安宅の関を通過しようとしたとき、関守富樫に疑われる。そのとき、弁慶は東大寺復興勧進のため諸国を廻る役僧と称し、勧進帳(寄付帖)の空読みを行った。しかし、強力姿の義経が見破られそうになった。弁慶は、疑いを晴らすため金剛杖で主:義経を打ち据えました。富樫は、弁慶の知と忠誠心に心をうたれ、義経と知りつつ主従の通行を許しました。
(小松市観光協会パンフレット参照)
安宅の関跡
地図
与謝野晶子の句
松立てる あたかの砂丘 その中に
清きは文治 三年の関
弁経謝罪の地 (地図)
安宅関を無事通過した義経一行が、道林寺に着いた。
弁慶は、主:義経を金剛杖で打った罪を謝罪した。義経は「機知の働きは天の加護」とその忠誠心をねぎらったと言う。
1.平陣屋 平家軍が陣を置いたと場所と言われている
2.尼御前岬 義経一行の中にいた尼が足手まといにならないようにと身を投げた岬
3.鏡の池 実盛が白髪を染めるために使った鏡を投げ入れた池
4.実盛塚 斉藤実盛の墓
5.首洗池・篠原古戦場 実盛の首を洗った池と古戦場
26.正覚寺 仏御前が去るとき清盛が与えた阿弥陀如来像が安置されている
27.菅生石神社 義経が奥州行きのときに参拝した
6.安宅関・住吉神社 勧進帳の義経・弁慶・富樫の像と関所跡があります。
7.多太神社 実盛の兜と芭蕉の句碑があります。
8.根上の松 根が地上に浮き上がった松があり、古戦場の跡でもあります。
9.弁慶謝罪の地 主人義経を打った弁慶が謝罪した道林寺跡
10.仏御前の里 清盛の愛人・仏御前の像・屋敷跡・墓があります。
11.泰産神社 仏御前が人々の安産を願って寄進した神社
12.木滑神社 仏御前が清盛の子を出産するときに寄りかかった石があります。
13.巖根神社 義経主従が武運祈願をした
14.布市神社 弁慶の力石
15.金釼宮 義経の腰掛岩
28.大野湊神社 義経主従が富樫を訪れた弁慶を待った場所
16.鳴和の滝 安宅の関守・富樫が義経一行に追いつき酒宴を開いた。
17.夜明かしの松 義経主従が松の根元でたき火をして一夜を明かした。
18.倶利伽羅古戦場 義経一行が峠を通るさい滅びた平家の魂を祀った。
木曽義仲が平維盛を「火牛の計」で破った
19.如意の渡し 義経の素性が疑われ弁慶が義経を打った勧進帳の元になった。
20.弁慶の足跡岩 弁慶の足跡の大きなくぼみのある石がある。
21.碁盤島 景色がすばらしく、義経一行が上陸し碁を打った
22.義経の船隠し岩 義経一行が追っ手を逃れるため洞窟に船を隠した。
23.窓岩 義経が放った矢で岩盤を貫いた伝説があります。
24.平時忠一族の墓 檀の浦の合戦で捕らえられた時忠が流された地
25.須須神社 海難を逃れるため義経と弁慶が笛と短刀を奉納した
義経は、一の谷そして屋島と平家を追い詰め、壇ノ浦で滅亡させたが、頼朝への報告で鎌倉に行ったが会ってもらえず、平家の大将:平宗盛連れて京都に帰りました。頼朝の「義経追討令」が出て、追われる身となった義経は、京都→吉野→北陸→奥州(藤原氏)へと落ち延びて行きました。
「義経記」によれば越前(福井県)平泉寺(へいせんじ)→加賀市・菅生石部神社(すごういそべ)→加賀市の多太神社で斎藤実盛を偲んでいる。安宅の渡し(小松市)から根上松(ねあがり)(能美市)、白山権現に参拝、加賀国富樫(野々市町)を過ぎ、かつて木曽義仲が平家を破った倶利伽羅峠(くりからとうげ)(津幡町(つばた))では平家の霊を慰め経を読んでいます。
尼御前岬
石川県加賀市美岬町 (地図)
義経一行の中にいた尼が、安宅関の取調べの厳しさを聞き、足手まといにならないようにと義経の安泰を願って岬から身を投げた悲しい話が伝わっています。
1.平陣屋 平家軍が陣を置いたと場所と言われている
2.尼御前岬 義経一行の中にいた尼が足手まといにならないようにと身を投げた岬
3.鏡の池 実盛が白髪を染めるために使った鏡を投げ入れた池
4.実盛塚 斉藤実盛の墓
5.首洗池・篠原古戦場 実盛の首を洗った池と古戦場
26.正覚寺 仏御前が去るとき清盛が与えた阿弥陀如来像が安置されている
27.菅生石神社 義経が奥州行きのときに参拝した
6.安宅関・住吉神社 勧進帳の義経・弁慶・富樫の像と関所跡があります。
7.多太神社 実盛の兜と芭蕉の句碑があります。
8.根上の松 根が地上に浮き上がった松があり、古戦場の跡でもあります。
9.弁慶謝罪の地 主人義経を打った弁慶が謝罪した道林寺跡
10.仏御前の里 清盛の愛人・仏御前の像・屋敷跡・墓があります。
11.泰産神社 仏御前が人々の安産を願って寄進した神社
12.木滑神社 仏御前が清盛の子を出産するときに寄りかかった石があります。
13.巖根神社 義経主従が武運祈願をした
14.布市神社 弁慶の力石
15.金釼宮 義経の腰掛岩
28.大野湊神社 義経主従が富樫を訪れた弁慶を待った場所
16.鳴和の滝 安宅の関守・富樫が義経一行に追いつき酒宴を開いた。
17.夜明かしの松 義経主従が松の根元でたき火をして一夜を明かした。
18.倶利伽羅古戦場 義経一行が峠を通るさい滅びた平家の魂を祀った。
木曽義仲が平維盛を「火牛の計」で破った
19.如意の渡し 義経の素性が疑われ弁慶が義経を打った勧進帳の元になった。
20.弁慶の足跡岩 弁慶の足跡の大きなくぼみのある石がある。
21.碁盤島 景色がすばらしく、義経一行が上陸し碁を打った
22.義経の船隠し岩 義経一行が追っ手を逃れるため洞窟に船を隠した。
23.窓岩 義経が放った矢で岩盤を貫いた伝説があります。
24.平時忠一族の墓 檀の浦の合戦で捕らえられた時忠が流された地
25.須須神社 海難を逃れるため義経と弁慶が笛と短刀を奉納した
東尋坊
福井県坂井市三国町安島(地図)
平泉寺(へいせんじ福井県)
福井県勝山市平泉寺町66-2-12 (地図)
菅生石部神社(すごういしべ)
多太神社(たたじんじゃ)〔地図〕
実盛墓(地図 )
平家終焉の地
1185年3月、壇ノ浦の合戦で敗れた平家一門は、安徳天皇をはじめとしてことごとく入水、戦死しました。しかし、建礼門院、総大将:平宗盛、息子:清宗は捕えられました。宗盛父子は、義経によって頼朝のいる鎌倉に連れていかれましたが、勝手に官位をもらった義経は鎌倉に入れてもらえず、京に引き返しました。
京まであと一日のここ篠原の地で、義経は京に平家総大将の首を持ち帰るため処刑いたしました。その首を洗った池が「首洗い池」としてあります。
国道8号線から少し入ったところにあの栄華を極めた平家の終焉の地がひっそりと風雪に耐えて残っています。
所在地:滋賀県野洲市大篠原 (地図)
平宗盛と息子清宗の墓
【平家物語】
宗盛殿もこの聖こそ仏道への案内者だと思われ、すぐに妄念を翻し、西に向かって手を合わせ、声高に念仏しておられるところに、橘右馬允公長が太刀を構えて、左の方より背後に回ってまさに斬ろうとしたとき、宗盛殿は念仏を止め、合掌の手を返し
宗盛「もう清宗も斬ったのか」
と言われたことが哀れであった公長が背後へ回った見えた瞬間、首は前に落ちた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
清宗殿は、仏道へ導いてくれるの本性房湛豪に向かってところで
清宗「父の最期はどのようでしたか」と尋ねられると
「ご立派でしたご安心召され」と答えたので、
清宗殿はもうこの世に思い残すことはない
清宗「さあ、早く斬れ」
と首を伸ばして討たせられた今度は堀弥太郎景光が斬った。
義経殿が首を持たせて都へ上られ、骸を公長の指図で、親子をひとつの穴に埋めた、これは宗盛殿があまりに懇願したからでした。同・二十三日、武士や検非違使が三条河原に出向き、平家の首(宗盛と嫡男清宗)を受け取った。三条を西へ、東洞院を北へ引き回し、獄門の左に生える栴檀の木に掛けられた。
1185年(元暦2年)、壇ノ浦で平家を滅ぼした義経は、平家の総大将平宗盛と嫡男清宗を連れて、鎌倉に凱旋しようとしたが、兄頼朝から鎌倉に入ることを許されず、満福寺に一時身を置いていました。
満福寺所有の腰越状は、弁慶が書いたと言われています。
鎌倉市腰越2-4-8(地図)
義経と弁慶
【平家物語 腰越】
日数が経って同・二十三日、義経殿が鎌倉へ到着したが、梶原平三景時は義経殿より一日早く発っており、頼朝殿に今、日本国中の人々は残らず殿に従っております。しかし、弟君の九郎大夫判官義経殿だけは、最後の敵となるように思われます・・・・・・
義経殿はいろいろ陳情したが、景時が告げ口をしたので頼朝殿は却下された 。宗盛殿・清宗殿父子をお連れして急いで京へ帰るようにとのことで、六月九日、また宗盛殿・清宗殿父子を預かって都へ戻られた。
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)
鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社。
鎌倉市雪ノ下(地図)
白旗神社
明石城
兵庫県明石市 (地図)
1617年7月〔元和3年(げんな)〕、小笠原忠真(ただざね)が信州松本から明石に国入りする。義父の姫路城主本多忠政と相談し人丸山に新城を築く。
その時、町づくりに本多忠政の長男忠刻(千姫の夫)の客臣宮本武蔵が姫路から明石に来て小笠原家の客分となり、明石の町割りをしました。(播州明石記録)
武蔵は、明石滞在中に、自分の剣に「円明流(えんみょう)」という流名をつけています。円明は、月の名所である明石の月からきています。
城から見たから見た明石の町
左(東側)は、巽櫓(たつみやぐら)、右(西側)坤櫓(ひつじ)お城の南側で、左に明石海峡大橋や中央に淡路島が見えます。
お城から見た明石の町と武家屋敷
城の南側に町民の住む町を作りました。今日の明石の商店街として栄えている鍛冶屋町、細工町、東本町、西本町、信濃町(今の中町)、東魚町、西魚町、東樽屋町、西樽屋町、材木町、明石町が誕生した。
『播州明石記録』によると明石の町割りは、宮本武蔵が行ったと伝えています。
織田家長屋門
(侍町:現大明石町2丁目 地図)
武家屋敷の遺構として唯一現存するもので、お城の正面右手に位置し、この辺りは藩の重臣の屋敷が多くあった。
武蔵が造った庭園
本松寺庭園 ≪地 図≫
円珠院内庭園 ≪地 図≫
宮本武蔵出生の地 作州説
作 州 説
岡山県英田郡大原町宮本 ≪地 図≫
吉川英治著「宮本武蔵」の中で作州讃甘村(さのもむら 岡山県)と書かれています。
父は、兵学の指南役で幼少の武蔵に得意の十手術を教えた。当時から体格の良かった武蔵は近郷きっての暴れん坊に成長する。
宮本武蔵生家
約60m四方の大きな茅葺の家であった。S17年に火災にあい、現在の瓦屋となる。1584年(天正12年3月)この地にて父:無二斎、母:お政の二男として生まれる。
讃甘神社(さのも)
関が原の戦いのあと、帰郷の途中、播州境の木戸を破ったことにより追われ、宮本村に帰って、讃甘の山に隠れていた。その地名が残っている。
武蔵、お通、又八
初決闘の場 ≪地 図≫
武蔵13歳の時、播州平福で新当流有馬喜兵衛と口論の末、一刀の元に打ちはたし、そのまま武道終業の旅に出る。
(5輪書に書かれています))
《 武 蔵 の 初 決 闘 》 著者:直木 三十五 「日本剣豪列伝」より
『・・・といっているうちに、弁之助(武蔵の少年時代の名)が、づかづかと、入ってきて、「喜兵衛とは、その方か」と、怒鳴った。十三歳と聞いて(何の子供が)と、世間の十三の 子供を描いていた有馬は、余りに大きいのに(これが十三か)と、思いつつも「よう参った」と、声をかけると、弁之助は「勝負」と、叫んで、有馬を打った。喜兵衛は、その振舞いに 「何を致す」さっと抜き打ちにーーー弁之助は、手早くかわして、棒をすてると、無手(むず)と、喜兵衛に組みついて「あっ」と、人々も、有馬もいう瞬間、有馬を頭上へ差し上げると、 力任せに、大地へ叩きつけた。起き上がれずに、もがく有馬の背や、頭を、棒を拾って「どうだ、どうだ」と、つづけざまに、その性来の大力で打ったから、有馬は動かなくなって しまった。頭も血塗れ(ちまみれ)であった。・・・』
平福宿場通り
川に沿って南北に通る宿場町。武蔵の初決闘の場所は、ここより南側の金倉橋のたもと平福の松原であった。1597年(慶長2年)のことでした。
竹山城址
1493年(明応2年)、新免伊賀守貞重によって築城される。武蔵の祖父平田将監が家老とし、又、父平田武二斎が剣道師範として仕えた場所です。
宮本武蔵の生まれた場所には、色々な説があります。歴史上の宮本武蔵は、その伝記に不明な点が多く、生まれた土地や生没年も謎に包まれています。武蔵自身は、五輪書の中で「生国播磨の武士・・・」と書いています。
●高砂説 ●宮本説 ●作州説
高 砂 説
米田天神社 ≪地 図≫
兵庫県高砂市米田町米田
武蔵の養子伊織が加古川市の泊神社に献上したとされる棟札(とうさつ)等が根拠になっています。
宮本 武蔵 ・ 宮本 伊織 生誕の地
(幅・約6m 高さ・約3m)
宮本一族が武蔵・伊織の生誕の地と認めた碑
武蔵の養子伊織が改築した泊神社(兵庫県加古川市木村)の棟札(とうさつ)には、「作州(岡山県英田郡(あいだ)大原町)に新免という武士があり世継ぎがないまま死んだ。その遺志を継いだのが武蔵で、後に宮本と氏を改める。武蔵には子供が無く、伊織(武蔵の兄の子供)を養子にし、伊織も宮本姓を名乗った・・・」とあります。この資料から田原一族が住んでいた米田(兵庫県高砂市米田)で武蔵は生まれ、、新免の跡を継いで宮本姓を名乗ったのが、真説かと思われます。
泊神社の棟札は、1961年(昭和36年)に発見された。広く世に伝わっている武蔵像は、吉川英治著「宮本武蔵」からで、この書が書かれたのは、1935年(昭和10年)であった。
※棟札とは、建物の棟上の際に、建造の年月日や施主などが記され、天井の棟木などに打ち付けられた板札のこと。古文書のみでは分からなかった地域の歴史なども読み取ることができる。
泊神社(とまり)
1653年(承応2年)、宮本武蔵の甥で養子の宮本伊織が、小倉藩筆頭家老に就き、故郷の当宮を武蔵の供養の意を込め浄財を寄進し全社殿を再建した。
本殿裏の二基の灯籠は、宮本伊織と田原正久が寄進した。
田原家屋敷跡
このあたりは、庄屋であった田原家の土地の一部であったとされている。
天正十年(1582)に武蔵は生まれる。武蔵は、後に養子にした伊織の父の弟で、作州宮本無二之助一直の養子となった。
兵庫県加古川市木村 ≪地 図≫
宮 本 説
宮本武蔵生誕地の碑(石海神社前)
兵庫県揖保郡太子町宮本162
≪地 図≫
地誌「播磨鏡」に『損東郡鵤ノ庄(いかるがのしょう)宮本村の産なり』とあります。
宮本武蔵、損東郡鵤ノ庄(いかるがのしょう)宮本村の産なり。若年より兵術を好み諸国を修業し、天下にかくれなく則武蔵流と云いて諸士に門人多し、然れども諸侯に仕えず明石に至りて小笠原右近将監督候に趣き玉ふとき同伴し、養子伊織に五千石を賜りて大老職に任官す。今に其子孫孫三千石にて家老職と云・・・。
※【播磨鏡は地誌で、1762年(宝暦12年)に播磨国の神社・仏閣・名所古跡・人物・物産・風俗・古老の伝承等を記載した書物です。】
《二刀流について》 著者:早乙女 貢 「新編 実録・宮本 武蔵」より
『武蔵は、「・・・兵法の道、二天一流と号し」て、「この一流二刀と名付ける事」といい、二刀の利点を述べてはいるが、”まず片手にて太刀を振り習はんために、二刀として、太刀を 片手にふり憶ゆる道也”とある。腕を鍛えるためだというのだ。・・・・・一刀よりも二刀が便利だと思うのは、二挺拳銃くらいしかない。刀というものを考えていない証拠だ。刀というものが 如何に重いか。サーベルとは違う。三尺前後の太刀を、片手で持って骨まで切り下げるというのは、相当な膂力(りょりょく)の持ち主でなければ難しいのだ。右の太刀で人を斬り、左の 脇差でも人を斬るというのが容易だったら、一人二役だから二刀流の名人というのが輩出したはずである。・・・』
宮本武蔵対佐々木小次郎
「武蔵!遅参とは何事か。臆したか。」
というや物干し竿を抜き放ち鞘は波間へ。
それを見た武蔵はにやりと笑いこう叫んだ。
「小次郎破れたり!」
巌流島
関門海峡に浮かぶ巌流島の正式名称は「船島」。下関市の彦島江の浦東岸250mにある無人島です。
この島で、1612(慶長17)年4月13日に宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘し、敗れた佐々木小次郎の流儀「巌流」をとって巌流島と呼ばれるようになりました。 また、4月13日を決闘の日としています。
《 地図 》
巌流島へは、下関唐戸から10分ほどで行けます。
決闘
遅れてやってきた武蔵は、櫂(かい)の木刀をひっさげ素足で舟から降り立った。小次郎は武蔵が近ずくと長刀を真っ向に振りたて、眉間(みけん)めがけて打ちおろした。同時に武蔵も櫂の木刀を打った。その木刀が小次郎の額にあたり、たちどころに倒れた。小次郎の打った刀は、その切先が武蔵の鉢巻の結び目に触れ、鉢巻は二つになって落ちた。武蔵は倒れた小次郎を見つめ、又、木刀を振り上げて打とうとする瞬間、小次郎が刀を横にはらった。武蔵の袴のすそを三寸ばかり切り裂いた。が、武蔵の打ち下ろした木刀は、小次郎のわき腹、横骨を打ち折った。
小次郎は気絶し、口鼻から血を流した。武蔵は手を小次郎の口鼻にあてがい、死活をうかがい、一礼して立ち去った。
(「二天記」より)
宮本武蔵
生まれは、兵庫県とも岡山県とも言われる。太刀を右手に小刀を左手に持ち自在に操る二天一流。13歳で初決闘、その後多くの試合に勝って来たが、謎につつまれている。
佐々木小次郎
出生地、年齢などほとんど謎。自ら巌流という流派を起こし、刃渡り90cm以上の長刀を操る。頭上から一気に振り下ろし剣先をひるがえして下から切る「燕返し」を得意とした。
佐々木巌流の碑
巌流島の名前は小次郎の流派の名前。島の正式名は船島
この島に 二人降り立ち 闘ひし
むかしの男 恋ほしかるかな
森重 香代子
武蔵出陣の地
小次郎の物干し竿に対すべく武蔵は行きの船上で櫂を削る。仕合開始が午前8時にも関わらず陽が高く昇りきったころ武蔵は舟島に向かった。
巌流島から武蔵船出の地を望む
壇の浦源平合戦史蹟3
門司にある源平の史跡
関門海峡 源平の史跡
1 満珠・千珠島・・・源平が集結した場所。
2 豊功神社・・・満珠・千珠島を見るビューポイント
3 平家塚・・・平家落人の墓と伝えられており、古い五輪塔6基のほか墓石があります。
4 平家の一杯水・・・合戦で喉の渇いた平家の武将が水を飲んだ場所
5 みもすそ川公園・・・公園の前の海峡で壇ノ浦決戦が行われた。そのときの
両軍の総大将の像があります。源氏軍・義経 平家軍・平知盛
6 赤間神宮・・・安徳天皇が祀られており、竜宮城をイメージして造られています。
耳なし芳一像や平家一門の墓・7盛塚があります。
安徳天皇陵と紅石稲荷神社が近くにあります。
7 海響館・・・平家蟹が展示されています。
8 大歳神社・・・義経が戦勝祈願をしたところ。
9 厳島神社・・・安芸の厳島神社の分霊を平家の守護神として祀った。
10 御旅所・・・安徳天皇が引き上げられた時、一時安置された場所。
11 きぬかけ岩・・・敗れた平家の武将の妻が岩に衣をかけ身投げしたところ。
12 西楽寺・・・平家ゆかりの寺、本尊・阿弥陀如来像は重盛の守り本尊。
13 清盛塚・・・壇ノ浦合戦時、平家が砦を造っていた場所とされています。
14 和布刈神社・・・壇ノ浦合戦前夜に平家の武将が戦勝祈願をした。
15 壇ノ浦合戦壁画・和布刈公園内に長さ44mの合戦を描いた有田焼の壁画があります。
16 門司城址・・平知盛が壇ノ浦の見える古城山に築造した城。
17 甲宗八幡神社・・境内に平知盛の墓があります
18 海御前の碑・水天宮には平教経の奥方(海御前・あまごぜ)の碑があります。
19 殿墓・・平家の敗戦を知った平休息が、山中に逃れ一族の墓を集めた所。
20 三坐像・安徳帝と思われる幼帝、二位の尼、知盛の像が安置されている(非公開)
21 平山観音院・院の起こりは、平家の残党が一族を弔うために建立した。
22 海峡ドラマシップ・人形アートでたどる歴史絵巻では、壇ノ浦合戦場面、
源氏・平氏の群像、安徳天皇と二位の尼、海に沈む建礼門院などを再現しています。
23 柳の御所(御所神社)・落ち延びた平家は門司区大里に御所を定めた。
都を偲んだ平時忠、経正と忠度の歌碑三基があります。
24 風呂の井戸・安徳帝一行の疲れを癒すためここの泉の水を風呂の用水にした。
和布刈神社(めかり)
和布刈神社からは壇ノ浦は目の前です
甲宗八幡神社(こうそう)
(地図)
源平ゆかりのお寺
壇ノ浦の戦いでは、源氏大将源範頼は参拝して必勝を祈願し、その後、副将源義経とともに社殿を造営した。
平家の大将平知盛の墓があります。
金子みすず
童謡詩人。1903年(明治36年)~1930年((昭和5年)。
20歳のとき下関に移り住み創作活動を行った。
みんなちがって
みんないい
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。
そうして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも
鶴
お宮の池の 丹頂の鶴よ
おまへが見れば、 世界ぢゅうのものは、
何もかも、網の目が ついてゐよう。
あんなに晴れたお空にも、
ちひさな私のお願にも。
お宮の池の 丹頂の鶴が、
網のなかで静かに 羽をうつときに。
一山むかうを お汽車が行った。
関門海峡 源平の史跡
1 満珠・千珠島・・・源平が集結した場所。
2 豊功神社・・・満珠・千珠島を見るビューポイント
3 平家塚・・・平家落人の墓と伝えられており、古い五輪塔6基のほか墓石があります。
4 平家の一杯水・・・合戦で喉の渇いた平家の武将が水を飲んだ場所
5 みもすそ川公園・・・公園の前の海峡で壇ノ浦決戦が行われた。そのときの
両軍の総大将の像があります。源氏軍・義経 平家軍・平知盛
6 赤間神宮・・・安徳天皇が祀られており、竜宮城をイメージして造られています。
耳なし芳一像や平家一門の墓・7盛塚があります。
安徳天皇陵と紅石稲荷神社が近くにあります。
7 海響館・・・平家蟹が展示されています。
8 大歳神社・・・義経が戦勝祈願をしたところ。
9 厳島神社・・・安芸の厳島神社の分霊を平家の守護神として祀った。
10 御旅所・・・安徳天皇が引き上げられた時、一時安置された場所。
11 きぬかけ岩・・・敗れた平家の武将の妻が岩に衣をかけ身投げしたところ。
12 西楽寺・・・平家ゆかりの寺、本尊・阿弥陀如来像は重盛の守り本尊。
13 清盛塚・・・壇ノ浦合戦時、平家が砦を造っていた場所とされています。
14 和布刈神社・・・壇ノ浦合戦前夜に平家の武将が戦勝祈願をした。
15 壇ノ浦合戦壁画・和布刈公園内に長さ44mの合戦を描いた有田焼の壁画があります。
16 門司城址・・平知盛が壇ノ浦の見える古城山に築造した城。
17 甲宗八幡神社・・境内に平知盛の墓があります
18 海御前の碑・水天宮には平教経の奥方(海御前・あまごぜ)の碑があります。
19 殿墓・・平家の敗戦を知った平休息が、山中に逃れ一族の墓を集めた所。
20 三坐像・安徳帝と思われる幼帝、二位の尼、知盛の像が安置されている(非公開)
21 平山観音院・院の起こりは、平家の残党が一族を弔うために建立した。
22 海峡ドラマシップ・人形アートでたどる歴史絵巻では、壇ノ浦合戦場面、
源氏・平氏の群像、安徳天皇と二位の尼、海に沈む建礼門院などを再現しています。
23 柳の御所(御所神社)・落ち延びた平家は門司区大里に御所を定めた。
都を偲んだ平時忠、経正と忠度の歌碑三基があります。
24 風呂の井戸・安徳帝一行の疲れを癒すためここの泉の水を風呂の用水にした。
満珠・千珠島
(地図)
豊功神社「とよこと」
歴代の長府藩主を祀る神社です。満珠・干珠島を眺めることができます。
大歳神社
義経が必勝祈願をしたところ
山口県下関市長府宮崎町4-1(地図)]
平家一杯水
深手を負った平家の武将がここで水を飲んだ
(地図)
壇ノ浦源平合戦
関門海峡の西:彦島に平家軍千余艘、東:満珠島に源氏の船団三千余艘が陣取る。1185年(治承四年)3月24日正午、海戦の火蓋が切られた。潮の流れの変化に乗じて源氏軍が平家船団にいっきに攻め入り、夕刻5時ころに勝敗は決し平家の赤い旗印が漂っているだけでした。
(地図)
さて、源平の陣の間隔は、海上で三十余町ほど隔たっていた。門司、赤間、壇ノ浦は沸き返って流れる潮なので、源氏の舟はは潮に向かって心ならずも押し返される。平家の船は潮に乗って出て行く。沖は潮が速いので、海岸に寄り添って、梶原は敵の船と行き違うところで熊手を投げかけ、親子、主従十四、五人乗り移り、刀を抜いて艫舳と散々に薙いで回る。分捕りも沢山して、その日の高名、筆頭に記録された。
源平両方とも陣の声を揃え、鬨の声を挙げる。上は仏の梵天王まで聞こえ、下は龍宮の龍王も驚くだろうと思えた。・・・・・・・
(平家物語 壇ノ浦合戦)
源氏の総大将:義 経
5 壇ノ浦合戦の海峡と義経と知盛像
(みもすそ川公園 地図)
関門海峡 源平の史跡
1 満珠・千珠島・・・源平が集結した場所。
2 豊功神社・・・満珠・千珠島を見るビューポイント
3 平家塚・・・平家落人の墓と伝えられており、古い五輪塔6基のほか墓石があります。
4 平家の一杯水・・・合戦で喉の渇いた平家の武将が水を飲んだ場所
5 みもすそ川公園・・・公園の前の海峡で壇ノ浦決戦が行われた。そのときの
両軍の総大将の像があります。源氏軍・義経 平家軍・平知盛
6 赤間神宮・・・安徳天皇が祀られており、竜宮城をイメージして造られています。
耳なし芳一像や平家一門の墓・7盛塚があります。
安徳天皇陵と紅石稲荷神社が近くにあります。
7 海響館・・・平家蟹が展示されています。
8 大歳神社・・・義経が戦勝祈願をしたところ。
9 厳島神社・・・安芸の厳島神社の分霊を平家の守護神として祀った。
10 御旅所・・・安徳天皇が引き上げられた時、一時安置された場所。
11 きぬかけ岩・・・敗れた平家の武将の妻が岩に衣をかけ身投げしたところ。
12 西楽寺・・・平家ゆかりの寺、本尊・阿弥陀如来像は重盛の守り本尊。
13 清盛塚・・・壇ノ浦合戦時、平家が砦を造っていた場所とされています。
14 和布刈神社・・・壇ノ浦合戦前夜に平家の武将が戦勝祈願をした。
15 壇ノ浦合戦壁画・和布刈公園内に長さ44mの合戦を描いた有田焼の壁画があります。
16 門司城址・・平知盛が壇ノ浦の見える古城山に築造した城。
17 甲宗八幡神社・・境内に平知盛の墓があります
18 海御前の碑・水天宮には平教経の奥方(海御前・あまごぜ)の碑があります。
19 殿墓・・平家の敗戦を知った平休息が、山中に逃れ一族の墓を集めた所。
20 三坐像・安徳帝と思われる幼帝、二位の尼、知盛の像が安置されている(非公開)
21 平山観音院・院の起こりは、平家の残党が一族を弔うために建立した。
22 海峡ドラマシップ・人形アートでたどる歴史絵巻では、壇ノ浦合戦場面、
源氏・平氏の群像、安徳天皇と二位の尼、海に沈む建礼門院などを再現しています。
23 柳の御所(御所神社)・落ち延びた平家は門司区大里に御所を定めた。
都を偲んだ平時忠、経正と忠度の歌碑三基があります。
24 風呂の井戸・安徳帝一行の疲れを癒すためここの泉の水を風呂の用水にした。
6 赤間神宮 (地図)
壇ノ浦の合戦で敗れ、8歳で関門海峡に入水された安徳天皇を祀っています。「海の中にも都はある」と言った清盛の妻:二位の尼の願いを反映して竜宮城をイメージして造られています。
境内には、平家の墓、小泉八雲の怪談「耳なし芳一」の堂、隣に安徳天皇陵と紅石八幡神社があります。
紅石稲荷神社(赤間神宮のすぐ上にあります)
平家一門が安徳天皇を奉じて西還した時に都の鎮護:京都伏見稲荷大明神を勧請して乗船し、長門国の壇ノ浦に到達するや、紅石山に鎮祭されたのがこの稲荷です。
八咫鏡(やたのかがみ)
八咫鏡とは天照大神が天の岩戸にこもったとき、奉ったという鏡。
義経が探していた三種の神器とは、八咫鏡、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)です。
安徳天皇とともに沈んだとされた八咫鏡が岡山県で発見され赤間神宮に奉鎮された。赤間神宮には、第十代祟神天皇から、壇ノ浦で崩御された第八十代安徳天皇までの八咫鏡が納められているということです。
みみなし芳一
安徳天皇社 菊王丸の墓
1 安徳天皇社
1183年、平宗盛は、安徳天皇を奉じて、一の谷から屋島に来ました。そして内裏を造営し,公家の屋敷,武士の陣営をこの場所に造らせましたた。境内は安徳天皇の内裏跡と伝えられています。
この辺りを壇ノ浦とも云い、壇ノ浦の名のついた施設や集会所があります。ここ讃岐では屋島の戦いを壇ノ浦の合戦と言うようです
高松市屋島東町(地図)
3 菊王丸の墓
佐藤継信は総大将源義経の身代わりとなり平家総大将:平教経(のりつね)の弓に撃たれました。教経に仕えていた菊王丸は、継信の首を取りに行こうとして継信の弟忠信に撃たれて死亡。主君教経はその死を憐れんでこの地に葬ったと言われています。
四国八十八箇所霊場の第八十四番札所
4 血の池
屋島寺の中にあって、源平合戦の武士たちが血の付いた刀を洗ったことから血の池と呼ばれるようになった。
屋島源平合戦2 弓流し
義経弓流しの跡と錣引き跡
9 義経弓流しの跡
与一が扇の的を撃ち落とした後、源氏と平家の合戦となりその最中、義経は勝ちに乗じて海中に入って戦う内に弓を海に落として平家の兵に熊手をかけられ海中に落ちかかったのを太刀で熊手を打ち払い左手の鞭で弓を手繰り寄せた場所。
義経が危険を冒して弓を拾ったのは「源氏の大将はこんな弱い弓を使っている」と笑われるのを恐れたためと言われています。
7 平家景清の錣引き(しころびき)
太刀を折られて逃げる源氏の十郎の兜を平家の景清(かげきよ)が熊手で引っ掛け、強い腕の力で兜の錣を引きちぎりました。しかし、十郎はやっと逃げることができました。
(錣(しころ)とは、兜の後ろや左右をおおうもの。)
平家物語 弓流し
那須与一が見事に扇を射落とした直後、平家方の50歳ほどの武者が船上に現れ、の立ててあった場所で舞い始めました。義経の命でこの武者が射殺されると、平家方はしばらく唖然としていましたが、やがて激怒し義経軍に攻撃をしかけ乱戦となりました。そのうちどうしたはずみか、義経は弓を海中に落とし、それを拾い上げようと必死です。
「危険なので弓をお捨てなされ、お捨てなされ。」
という郎党の声にも耳を貸さずようやくの思いで弓を拾いました。
義経は「弓が惜しくて拾ったのではない。叔父為朝(鎮西八郎)のような強い弓ならばわざとでも落として敵に見せるところだ。しかし
自分は小柄で非力だから張の弱い弓を使っている。それを拾われて、これが源氏の大将の弓かと笑われては末代までの恥である。それで命がけで拾ったのだ。」
と言ったので、郎党はみなこの言葉に感じ入ったということです。
屋島源平合戦1 那須与一
屋島(地図)
5 祈り岩
那須与一が扇の的を射落すときに岩のところで「南無八幡大菩薩・・・・願わくばあの扇の真ん中を射させたまえ」と祈ったと伝えられている岩。
6 駒立岩(こまたていわ)
那須与一は、扇の的を射るため海中まで馬を進めこの岩の上に馬を立たせて的を射たと言われる場所。
扇までの距離:約72メートル
時は二月十八日、午後六時頃のことであったが、平家側の船から女官が現れ扇の的を射させようとした。
折から北風が激しく吹いて、岸を打つ波も高かった。竿頭(かんとう 竿の先)の扇もそれにつれて揺れ動き、しばらくも静止していない。
沖には平家が、海上一面に舟を並べて見物している。陸では源氏が、馬のくつわを連ねてこれを見守っている。
与一は目を閉じて、
「南無八幡大菩薩、我が故郷の神々の、日光の権現、宇都宮大明神、那須の湯泉大明神、願わくは、あの扇の真ん中を射させたまえ。これを射損じれば、弓を折り、腹をかき切って、再び人にまみえる心はありませぬ。いま一度本国へ帰そうとおぼしめされるならば、この矢を外させたもうな。」
と念じながら、目をかっと見開いて見ると、うれしや風も少し収まり、的の扇も静まって射やすくなっていた。
与一は、かぶら弓を取ってつがえ、十分に引き絞ってひょうと放った。
小兵とはいいながら、矢は十二束三伏で、弓は強い、かぶら矢は、浦一帯に鳴り響くほど長いうなりを立てて、あやまたず扇の要から一寸ほど離れた所をひいてふっと射切った。かぶら矢は飛んで海へ落ち、扇は空へを舞い上がった。しばしの間空に舞っていたが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと散り落ちた。
夕日に輝く白い波の上に、金の日輪を描いた真っ赤な扇が漂って、浮きつ沈みつ揺れているのを、沖では平家が、舟端をたたいて感嘆し、陸では源氏方は「ああ、よく射た」とえびらをたたいてどっと歓声を上げた。
佐藤継信と大夫黒の墓
12 佐藤継信の墓
義経の身代わりとなって死んだ佐藤継信(つぐのぶ)の墓 享年28歳
(継信は、墓には次信ときざまれています。)
佐藤継信は、義経が挙兵したとき弟:忠信と一緒に参戦した。陸奥の国(福島県)出身
12 大夫黒の墓
継信の忠死を讃え、義経が鵯越の坂落としで乗っていた馬を志度寺に与え、死後、継信の側に埋葬された。
2 佐藤継信の碑
継信が義経の身代わりとなって忠死したことは武士道の鏡であるとして、初代高松藩主松平頼重が建立しました。
11 射落畠(いおちばた)
継信が源氏総大将義経の身代わりとなって、能登守平教経(のりつね)に、射落された所。
平教経(のりつね)は、平家随一の猛将であり、源義経の好敵手的存在。
8 洲崎寺(すさきじ)
佐藤継信の死体をこの寺の本堂の戸板に乗せて運んだと言われています。
庭に合戦当時の屋島を造っています。
『平家物語』巻第十一「嗣信最後」
屋島の戦いにおいて、強弓精兵平教経が源氏の大将である義経を一矢で射落とそうとねらったが、源氏方も一騎当千の兵たちがそれを防ごうと矢面に馳せた。真っ先に進んだ継信は弓手の肩から馬手の脇へと射抜かれて落馬した。義経は、急いで馬から飛び下り手を取って、
「この世に思い置くことはないか」と尋ねた。
継信は「源平の合戦に奥州の佐藤三郎兵衛継信という者が讃岐の国屋島の磯で、主に代わって討たれたなどと、末代までの物語に語られることこそ、今生の面目、冥途の思い出です」と答えて亡くなった。
義経は鎧の袖を顔に押し当てさめざめと泣き、近くにいた僧に大夫黒という鵯越を行なった名馬を賜わり、継信を供養させた。
継信の弟の忠信をはじめ、これを見た侍たちは皆涙を流し、「この主君のためなら、命を失うことは露塵ほども惜しくはない」と述べた。