義経 打倒平家58 戦の浜
戦の浜(山陽電車 須磨浦公園駅)辺りは平家の西の砦。義経の鵯越の坂落しで平家軍は総崩れとなり多くの武将が討たれ、また海へと逃げ延びていきました。西城戸の戦いの場です。
当時の海岸は、今のような広い幅ではなく、岸壁や砂浜が広がっていました。
1 敦盛塚
2 戦の浜碑
3 安徳天皇内裏跡
4 一の谷
5 平重衛捕らわれの碑
6 須磨寺
7 網敷天満宮
8 法界寺
9 源平合戦戦没者供養塔
10 多井畑厄除八幡宮
11 乙女神社
《地図》
2 戦の浜(須磨浦公園駅前)《地図》
一の谷から神戸方面を望む
戦いの浜
国道2号線、JR山陽本線、山陽電気鉄道が走っています。
4 一の谷(JR須磨駅より)《地図》
1 敦盛塚 《地図》
坂東武者熊谷次郎直実(なおざね)によって、捕らえられ首をうたれ、胴が埋葬された場所とされている(17歳)。敦盛は、笛の名手であった。
3 安徳天皇内裏跡《地図》
一の谷合戦の際、海上には平家の女房や付き人などと共に、安徳天皇や母の建礼門院が三種の神器とともに、平家の軍船に守られて海上にいたと思われます。
安徳帝は、1185年(寿永四年)、下関壇ノ浦の戦にて祖母の二位の尼(清盛の妻)に抱かれ、8歳海中に身を投じた。幼帝に同情を寄せて、この地を内裏址とした伝説が伝えられています。
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