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2022.03.17

義経 打倒平家59 西城戸の史跡須磨区

西城戸の戦い須磨区

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 平重衛捕らわれの遺跡 《地図》

重衡(しげひら)は清盛の五男。東の城戸を守っていたが源氏の軍勢に攻められこの地で生け捕りになった。土地の人が哀れに思い、濁り酒を勧めたところその情を喜び「ささほろや 波ここもとを 打過て すまでのむこそ 濁酒なれ」と詠んだ。
京で引き回されたあと鎌倉に送られ最後は処刑された(29歳)。
(山陽電車須磨寺駅北側にあります)

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【 平家物語 重衡生捕 】

本三位中将重衡は生田の森の副将軍であったが、軍勢は皆逃げ主従2人になられた。源氏の梶原源太景季(げんたかげすえ)と四郎高家(たかいえ)は、重衡を見つけ追っかけた。

重衡は、後ろから敵が追ってくるので、湊川、刈藻川(かるも)を渡り、蓮の池を右手に見て、駒の林を左手に、板宿、須磨も通り過ぎ、西に向かって逃げた。追っての源太景季は、追いつかないので弓を放ったら重衡の馬の三頭(さうつ)に当たった。家来の後藤兵衛盛長は、重衡の馬が弱ってきたのを見て、鎧につけていた平家の赤印を捨て逃げてしまった。

重衡は、もう最後と思い馬から下りて兜をぬぎ、腹を切ろうとなさった。そこに、四郎高家がかけつけ、
「それはいけません」と自分の馬に乗せて味方の陣に帰っていった。

後藤兵衛盛長は、逃げ延びた。重衡の乳母子(めのとご)であったので、上京したさいに「恥知らずの
盛長よ。重衡と一緒に死にもせず」と非難されたので、扇で顔を隠したと言うことである。

※・三頭とは、馬の尻のほう。
・重衡の逃げた地名は今も残っており東の砦:生田の森から海岸沿いに西の砦: 一の谷近くまで来た。



 綱敷天満宮(つなしき) 《地図》
源平合戦800年記念の慰霊の碑

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 法界寺
   地図
平清盛が大輪田の泊りの修復や経ケ島の築造に際して祈願した寺と言われています。
元は兵庫区西宮内町にあったが、区画整理で移転しました。
 
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頼政薬師寺
1154~55(久寿元~2)年頃に、源氏の血を引く源頼政公の手によって再興されたことから、「頼政薬師寺」という通称で呼ばれるようになりました。
源氏でありながら平家の政権下に名を残す。しかし、出世は遅く、昇殿を許されたのは63歳のとき、清盛の推挙で従三位に叙せられたのは75歳になってからである。清盛の厚い信頼もあったが、目に余る平家の横暴に反平家の兵を挙げるも、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍に追撃され、宇治川で敗れ平等院で切腹して果てた。歳七十七。
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神戸市須磨区桜木町1-4-6

《 地図 》

 

山陽電車須磨寺駅前商店街   《地図》
敦盛団子が売り出されているくらい敦盛の人気は義経以上です。

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