義経 打倒平家64 鵯越の坂落し
鵯越の坂落とし
【平家物語 老馬】
2月6日、義経は軍を2ツに分け土肥実平(どひさねひら)に7000騎を預け一の谷の西側から攻め込ませるために明石に向かわせた。義経は、少数精鋭の人数(70余騎)を率いて鵯越を通り一の谷を背後から攻めるため出発する。
6日の明けがた九郎御曹司は一万余騎を二軍にわけて、
①東城戸 源氏軍の本体は、総大将:源範頼が五万余騎を引きつれ東の砦:生田の森に近づいた。
②北城戸 義経は三千余騎で、一の谷の背後の鵯越を攻め下ろうと平家の陣の後方にまわられた。
③西城戸 土肥二郎実平に七千余騎を与え一の谷の西の方面に向かわせた。
鵯越 ≪地 図≫
総大将土肥二郎実平率いる源氏の西の砦攻撃軍7千余騎は、田井の畑(多井畑)を通り塩屋に集結した。
義経率いる奇襲部隊70余騎は、鵯越から鉄拐山で勢揃えして一の谷逆落としを決行した。
詳細図はこちらへどうぞ (須磨一の谷坂落し説)
※写真は鵯越から平家の北の砦のあった方面を望む
※逆落としは「この辺りで行われた説」と「須磨の鉄拐山あたりで実行された説」 があります。
【平家物語 一二之懸(いちにのかけ)】
西の砦の先陣を熊谷次郎直実が務める。
攻め落とす予定であった谷を左手にみて、右の方に馬を進めて行くうちに、長年人も通ったことのない田井の畑という古道を経て、一の谷の波うち際に出た。
一の谷に近い塩屋という所に、まだ夜も深かったので、土肥二郎実平(源氏の西の砦攻撃陣の総大将)は7千余騎でひかえていた。熊谷は波打ち際から、夜にまぎれてそこをつっと通り抜け、一の谷の西の城門へ押し寄せた。・・・・
「武蔵の国住人、熊谷次郎直実、子息の小二郎直家、一の谷の先陣であるぞ」
この写真は、山陽電車:須磨浦公園駅の北にそびえる鉢伏山と鉄拐山との間で眼下に海を見下ろせる急斜面で、義経が奇襲攻撃で「一の谷・坂落し」を決行した場所とされています。(坂落し 一の谷説の場所)
【平家物語 坂落し】
九郎御曹司がからめ手に回って、7日の明けがたに一の谷の後方、鵯越に上がり、今にも馬で駆け下ろうとなさるとき、・・・・・
御曹司義経は、平家の城郭をはるかに見わたしておられたが、「馬どもを駆け下ろさせてみよう」といわれて、鞍を置いた馬を追い落とした。ある馬は足を折って転げ落ち、ある馬は無事に駆け下りて行く。鞍を置いた馬3匹が、越中前司の屋形の上方に下り着いて、身ぶるいして立った。・・・・・
流れ落ちるように二町ばかり、下りて檀になっている所で馬をとめた。そこから下を見下ろすと、苔むした大岩壁が十四~五丈も垂直にきりたっている。・・・三浦の佐原十郎義連(よしつら)が先頭にたって駆け下りたので軍兵はみな続いて下りた。まったく人間わざとも見えず、ただ鬼神のしわざかと思われた。
源氏軍はどっと鬨の声をあげた。三千余騎の声だが十万余騎の声に聞こえた。
平家の軍兵はあわてて前の海に駆け入った。能登守教経(のりつね)は、播磨国明石浦から船に乗って、讃岐の屋島に逃げて行った。
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