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屋島の戦い
一の谷の戦いに敗れた平家は屋島に逃れ安徳天皇と三種の神器を奉り源氏との一戦に備える。
1185年2月19日午前8時、そこへ義経軍が襲い掛かり平家を打ち破った戦いで敗れた平家は西に落ち延びていく。
(当地では、屋島の戦いを壇ノ浦の戦いと言っています。)
屋 島
南嶺と北嶺の二つの嶺からなり、瀬戸内海に突き出した屋根型の陸繋島で標高292.1mの松の緑の美しい溶岩台地で瀬戸内海国立公園の一部です。
このような地形ですので、天然の要害となり、667年に屋島城が築かれ、源平合戦では平家の砦が置かれ壇ノ浦一帯は戦いの場となりました。
談古零(だんこれい)より
屋島寺近く(源平古戦場が一望できる場所)
総門
安徳天皇が六万寺を行在所としていた頃、海辺の備えとして門を構えていた場所。宮を移してからは、南の防禦に使っていた。当時は、この辺りは海でした。
現在の門は、初代高松藩主・松平頼重公が合戦の跡を後世に残すため建立した。
香川県高松市牟礼町牟礼(地図)
干潮時には騎馬で島へ渡れることを知った義経は強襲を決意。少人数の軍団であることを悟られないために、義経は周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけた。
義経、大阪から四国勝浦に上陸する。
渡辺津(大阪)
ここ渡辺の津(大阪)から、義経軍150騎が、暴風の中、屋島の平家軍を攻めるため船を出したと言われている。現在、「八軒家船着場の跡」の碑が建っている。この付近は古来より、交通の要所であった。
大阪市中央区天満橋京町(京阪電車「天満橋」)
1185年2月(元暦2年) 、義経は摂津国渡邊津に兵を集めた。1185年2月18日午前6時に義経の船団は暴風雨をつき通常3日の航路を4時間ほどで阿波国勝浦に到着した。その後、徹夜で讃岐国へ進撃して翌2月19日に屋島の対岸に至った。そして、周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけ、一気に屋島の内裏へと攻め込んだ。
(Wikipedia)
一の谷合戦
戦の浜
2月7日早朝、一の谷背後の鉄枴山(てっかいやま)に着き、東南壁から眼下をみると平家の本陣が見えた。絶壁を前にして歴戦の荒武者もたじろいだが、義経は「鹿も四っ足、馬も四っ足、鹿の通る道は馬も通るぞ」とまず、2頭の馬を落としてみせた。有名な 『鵯越の坂落し』の奇襲攻撃が決行された。平家軍にすれば人間が空から舞い降りてきた様に思われ雪崩をうったように海上に逃走した。そして、多くの戦死者をだした一の谷の合戦はその日の正午ごろに終わった。
≪ 地 図 ≫
山陽電車須磨浦公園駅の東側に一の谷があります。義経は、背後にある山から70騎の兵と共に一直線に平家の西の砦に攻め入ったと考えられています。一の谷町の名前が残っており、国道と住宅街になっています。
●文献で書かれている「一の谷」の場所はどこ???
・広くとらえ東の砦(生田の森)~西の砦(鉄拐山)までとする
・狭くとらえ鉄拐山の下にある現地名・一の谷とする
〔一の谷を広義にとらえる理由は〕
平家物語の記述にある「一の谷」は広義のものと考えられる(以下は平家物語から抜粋)
・九郎御曹司が搦手に回って、七日の明けがたに一の谷の後方、鵯越に上がり、今にも馬で駆け下ろうとなさると・・・・・
・鞍を置いた馬3匹が、越中前司の屋形の上方に下り着いて、身ぶるいして立った。・・・・・・・・・・・・
(越中前司盛俊は、山の方面を守備する軍の総大将であった)
義経が奇襲をかけた有名な「鵯越への坂落し」の場所は、2ヶ所の説があります。鵯越と言う地名がありそこだと言う説と兵庫県神戸市須磨区に一の谷と言う地名があり平家が西の砦とした須磨の海岸にせまった切り立った鉄拐山(てつかいやま)だと言う説があります。
屋島に逃げる平家軍
鵯越の坂落とし
【平家物語 老馬】
2月6日、義経は軍を2ツに分け土肥実平(どひさねひら)に7000騎を預け一の谷の西側から攻め込ませるために明石に向かわせた。義経は、少数精鋭の人数(70余騎)を率いて鵯越を通り一の谷を背後から攻めるため出発する。
6日の明けがた九郎御曹司は一万余騎を二軍にわけて、
①東城戸 源氏軍の本体は、総大将:源範頼が五万余騎を引きつれ東の砦:生田の森に近づいた。
②北城戸 義経は三千余騎で、一の谷の背後の鵯越を攻め下ろうと平家の陣の後方にまわられた。
③西城戸 土肥二郎実平に七千余騎を与え一の谷の西の方面に向かわせた。
鵯越 ≪地 図≫
総大将土肥二郎実平率いる源氏の西の砦攻撃軍7千余騎は、田井の畑(多井畑)を通り塩屋に集結した。
義経率いる奇襲部隊70余騎は、鵯越から鉄拐山で勢揃えして一の谷逆落としを決行した。
詳細図はこちらへどうぞ (須磨一の谷坂落し説)
※写真は鵯越から平家の北の砦のあった方面を望む
※逆落としは「この辺りで行われた説」と「須磨の鉄拐山あたりで実行された説」 があります。
【平家物語 一二之懸(いちにのかけ)】
西の砦の先陣を熊谷次郎直実が務める。
攻め落とす予定であった谷を左手にみて、右の方に馬を進めて行くうちに、長年人も通ったことのない田井の畑という古道を経て、一の谷の波うち際に出た。
一の谷に近い塩屋という所に、まだ夜も深かったので、土肥二郎実平(源氏の西の砦攻撃陣の総大将)は7千余騎でひかえていた。熊谷は波打ち際から、夜にまぎれてそこをつっと通り抜け、一の谷の西の城門へ押し寄せた。・・・・
「武蔵の国住人、熊谷次郎直実、子息の小二郎直家、一の谷の先陣であるぞ」
この写真は、山陽電車:須磨浦公園駅の北にそびえる鉢伏山と鉄拐山との間で眼下に海を見下ろせる急斜面で、義経が奇襲攻撃で「一の谷・坂落し」を決行した場所とされています。(坂落し 一の谷説の場所)
【平家物語 坂落し】
九郎御曹司がからめ手に回って、7日の明けがたに一の谷の後方、鵯越に上がり、今にも馬で駆け下ろうとなさるとき、・・・・・
御曹司義経は、平家の城郭をはるかに見わたしておられたが、「馬どもを駆け下ろさせてみよう」といわれて、鞍を置いた馬を追い落とした。ある馬は足を折って転げ落ち、ある馬は無事に駆け下りて行く。鞍を置いた馬3匹が、越中前司の屋形の上方に下り着いて、身ぶるいして立った。・・・・・
流れ落ちるように二町ばかり、下りて檀になっている所で馬をとめた。そこから下を見下ろすと、苔むした大岩壁が十四~五丈も垂直にきりたっている。・・・三浦の佐原十郎義連(よしつら)が先頭にたって駆け下りたので軍兵はみな続いて下りた。まったく人間わざとも見えず、ただ鬼神のしわざかと思われた。
源氏軍はどっと鬨の声をあげた。三千余騎の声だが十万余騎の声に聞こえた。
平家の軍兵はあわてて前の海に駆け入った。能登守教経(のりつね)は、播磨国明石浦から船に乗って、讃岐の屋島に逃げて行った。
三草山の戦い
義経が「鵯越」の奇策で平家の西の砦「一の谷」を急襲し栄華を誇った平家がその後、滅びていく歴史的にも大きな転換点となった戦です。
(軍の人数や鵯越の坂落しの場所等には、諸説あります)
【三草勢揃 三草合戦】(平家物語九 杉本圭三郎訳注)
源氏は、1184(寿永3)年2月4日に 攻めるはずであったが、故人入道相国の命日にあたると聞いて、仏事を行わせるために攻めなかった。
大手の大将軍は、源範頼(のりより)、これに従うもの総勢5万余騎が2月4日午前8時半頃都を出発してその日の午後4時~6時ごろに摂津国昆陽野(こやの 伊丹市)に陣をしいた。
搦手の大将軍は九郎義経、武蔵坊弁慶をはじめとして、総勢一万余騎、同じ時に都を出発して丹波路にすすみ、二日かかる道のりを一日で越え、播磨と丹波の境にある三草山の東の山口、小野原(兵庫県加東市)に到着した。
平家は平資盛(すけもり)を総大将として三草山(兵庫県加東郡)に約3000の兵で陣取る。義経軍は、総勢1万で民家に火を放ち、平家の陣に夜襲をかけた。平家軍は不意をつかれ敗走する。総大将:資盛は播磨国:高砂から屋島に逃れ、師盛(もろもり)は一の谷の平家の陣に逃れた。
(兵の数は平家物語に記載の数字です。)
三草山 ≪地 図≫
三隼合戦の事(二)平家軍になだれ込む源氏軍
まさか夜討ちをかけられるとは夢にも知らない平家の陣所では、「明日の戦に備えて、今夜はぐっすり眠れ」と言う命令に、軍兵どもは、眠りこけていた。すると夜半のころに、時ならぬ地響きとともに、「どっと」闇の声が上がった。源氏軍の奇襲である。慌てふためく平家の軍陣。弓を矢を、矢を弓と右往左往する社左往する平家の軍兵たちの中に、馬上の源氏が疾駆する。軍兵たちは馬の蹄にけられてはたいへんと、左右に逃げ散った。源氏勢は、風のようになだれ込んでいった。
垂水・須磨区内史跡map
18 御霊神社
19 奥畑大歳神社
18 御霊神社(ごりょうじんじゃ)
このあたりは、一の谷の合戦で源平の兵が激しく戦った地域でもあり、戦死者が多く出たためその霊を祭るために建てられました。現在は、端丘八幡神社に合祀されていますが、その跡地には祠があります。
(参考資料:垂水観光推進協議会パンフレット)
神戸市垂水区御霊町3(地図)
19 奥畑大歳神社
源平一の谷合戦地に近く、源義経が必勝祈願のために弓を引いた伝説があります。毎年1月に、弓を引いて的を射る「弓引きの神事」が行われています。須磨に流された在原行平も参拝したと言われています。
本殿
厄除塚
地図は こちらから 神戸市須磨区多井畑字宮脇1
2 石水寺(せきすいじ)
平清盛の孫師盛(もろもり)を弔ったという石板仏があり、神戸で最古の石仏だと考えられています。
神戸市垂水区名谷町3115番地(地図)
舞子公園(地図)
明石海峡の観える松林は、昔から風光明媚なところとして詩にも詠まれてきました。
平清盛もこの辺りで酒宴を開いたと言われています。
今は、昔の松林はほとんどありません。海岸線は埋め立てられて海水浴場になっています。明治40年ころの根上の松の面影も残っていません。
1100年以上の歴史がある『源平ゆかりのお寺』です。
須磨寺源平所蔵品
近くに敦盛胴塚があります。
『青葉の笛』 小学唱歌
一の谷のいくさ破れ
うたれし平家の公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれが 青葉の笛
須磨寺案内図 [地図]
当寺には、平敦盛遺愛の「青葉の笛」や弁慶の鐘、敦盛首塚、義経腰掛の松など、多数の重宝や史跡があります。昔から源平を偲んで訪れる人も多くいました。
10 須磨寺
本堂
熊谷次郎直実 「そもそもいかなる人か。名乗らせたまえ、お助けしよう」
敦盛 「討ち取ればよい手柄となるぞ。名乗らずとも首を取って人に問え」
左 敦盛 右 直実
敦盛首洗池
敦盛が処刑され首を洗った池
その上にある腰掛の松に義経が腰掛、敦盛の首実験をしたと言われている。
義経腰掛松
平清盛 出世稲荷
本堂西にある出世稲荷は、清盛が福原京の守護神として湊川のほとりに奉ったものです。立身出世、事業成功の神として信仰を集めました。明治中期、湊川を改修した際にこの地に移されました。
兵庫県神戸市須磨区須磨寺町4丁目6-8
(地図)
5 平重衛捕らわれの遺跡 《地図》
重衡(しげひら)は清盛の五男。東の城戸を守っていたが源氏の軍勢に攻められこの地で生け捕りになった。土地の人が哀れに思い、濁り酒を勧めたところその情を喜び「ささほろや 波ここもとを 打過て すまでのむこそ 濁酒なれ」と詠んだ。
京で引き回されたあと鎌倉に送られ最後は処刑された(29歳)。
(山陽電車須磨寺駅北側にあります)
【 平家物語 重衡生捕 】
本三位中将重衡は生田の森の副将軍であったが、軍勢は皆逃げ主従2人になられた。源氏の梶原源太景季(げんたかげすえ)と四郎高家(たかいえ)は、重衡を見つけ追っかけた。
重衡は、後ろから敵が追ってくるので、湊川、刈藻川(かるも)を渡り、蓮の池を右手に見て、駒の林を左手に、板宿、須磨も通り過ぎ、西に向かって逃げた。追っての源太景季は、追いつかないので弓を放ったら重衡の馬の三頭(さうつ)に当たった。家来の後藤兵衛盛長は、重衡の馬が弱ってきたのを見て、鎧につけていた平家の赤印を捨て逃げてしまった。
重衡は、もう最後と思い馬から下りて兜をぬぎ、腹を切ろうとなさった。そこに、四郎高家がかけつけ、
「それはいけません」と自分の馬に乗せて味方の陣に帰っていった。
後藤兵衛盛長は、逃げ延びた。重衡の乳母子(めのとご)であったので、上京したさいに「恥知らずの
盛長よ。重衡と一緒に死にもせず」と非難されたので、扇で顔を隠したと言うことである。
※・三頭とは、馬の尻のほう。
・重衡の逃げた地名は今も残っており東の砦:生田の森から海岸沿いに西の砦: 一の谷近くまで来た。
7 綱敷天満宮(つなしき) 《地図》
源平合戦800年記念の慰霊の碑
8 法界寺 《地図》
平清盛が大輪田の泊りの修復や経ケ島の築造に際して祈願した寺と言われています。
元は兵庫区西宮内町にあったが、区画整理で移転しました。
頼政薬師寺
1154~55(久寿元~2)年頃に、源氏の血を引く源頼政公の手によって再興されたことから、「頼政薬師寺」という通称で呼ばれるようになりました。
源氏でありながら平家の政権下に名を残す。しかし、出世は遅く、昇殿を許されたのは63歳のとき、清盛の推挙で従三位に叙せられたのは75歳になってからである。清盛の厚い信頼もあったが、目に余る平家の横暴に反平家の兵を挙げるも、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍に追撃され、宇治川で敗れ平等院で切腹して果てた。歳七十七。
神戸市須磨区桜木町1-4-6
《 地図 》
山陽電車須磨寺駅前商店街 《地図》
敦盛団子が売り出されているくらい敦盛の人気は義経以上です。
戦の浜(山陽電車 須磨浦公園駅)辺りは平家の西の砦。義経の鵯越の坂落しで平家軍は総崩れとなり多くの武将が討たれ、また海へと逃げ延びていきました。西城戸の戦いの場です。
当時の海岸は、今のような広い幅ではなく、岸壁や砂浜が広がっていました。
1 敦盛塚
2 戦の浜碑
3 安徳天皇内裏跡
4 一の谷
5 平重衛捕らわれの碑
6 須磨寺
7 網敷天満宮
8 法界寺
9 源平合戦戦没者供養塔
10 多井畑厄除八幡宮
11 乙女神社
《地図》
2 戦の浜(須磨浦公園駅前)《地図》
一の谷から神戸方面を望む
戦いの浜
国道2号線、JR山陽本線、山陽電気鉄道が走っています。
4 一の谷(JR須磨駅より)《地図》
1 敦盛塚 《地図》
坂東武者熊谷次郎直実(なおざね)によって、捕らえられ首をうたれ、胴が埋葬された場所とされている(17歳)。敦盛は、笛の名手であった。
3 安徳天皇内裏跡《地図》
一の谷合戦の際、海上には平家の女房や付き人などと共に、安徳天皇や母の建礼門院が三種の神器とともに、平家の軍船に守られて海上にいたと思われます。
安徳帝は、1185年(寿永四年)、下関壇ノ浦の戦にて祖母の二位の尼(清盛の妻)に抱かれ、8歳海中に身を投じた。幼帝に同情を寄せて、この地を内裏址とした伝説が伝えられています。
平清盛が建立したと言われており浦島伝説が伝わっています。
源義経率いる軍勢が、三草山の戦いに勝利し、塩屋にあった西の木戸口に向けて進軍してきた熊谷直美とこの付近で分かれ、平家の一ノ谷の陣が望める鉄拐山(てっかいざん)に向かいました。
乙姫神社入口
竜宮城入口
兵庫県神戸市垂水区下畑町(地図)
1184(寿永3)年、平家のたてこもる西の門からわずか離れたこの塩屋の地は、激しい戦いがあり、多くの兵士が死亡しました。この地の人たちは、戦死者の霊を弔うために、ひっそりと葬り、供養塔を建てました。
兵庫県神戸市垂水区塩屋町梅木谷(地図は下にあります)
この場所は、ひっそりと葬ったとあるように、大変わかりずらいところです。
下の案内板は、山王神社にあるものでそこから行きますとすこしは、分かるかと思います。木と草の生えた茂みの中にありました。
上の地図には、亀光神社とありますが、建物はなく、下の亀光大明神の石碑があるだけです。
●の場所に下右の標識があります。この茂みの突き当りに左写真の亀光大明神の石碑がり、そこを下に降りてゆきます。
※亀光大明神(きっこうだいみょうじん)には、昔、塩屋の浜に大きな海亀が現れ、その亀を山に上げて祀ったという伝説が残っています。
地図は こちををご覧ください。
東の生田の森、西の一の谷の中間にある平家の砦の攻防を『北城戸の戦い』と言ってこの戦いで戦死した源平勇士の史跡が兵庫県神戸市長田区に多く残っています。
1 平知章(ともあきら)
2 平盛俊の碑
3 監物太郎
4 源平勇士の墓
5 宝満寺
6 駒林神社
7 腕塚堂
8 胴塚
9 満福寺
10 平盛俊の墓
11 勝福寺
12 那須与一の墓
13 北向八幡神社
14 妙法寺
15 車大歳神社
1平知章(ともあきら) 明泉寺 《地図》
生田の森の大将軍新中納言知盛は部下の者総てを落ち失せ、息子武蔵の守知章、監物太郎頼賢と 主従三騎汀の方へ落ち行けり・・・源氏側の大将と思はるる一騎の武者は知盛に組付かんと 駆寄れば、息知章は父を討たすまじと中へたてむずと組付き取って押へ首を取り立上がらんとする 処を敵兵ち重なりて遂に知章の首を揚げた。・・・其の間に紛れ新中納言知盛は井上黒の愛馬 にて海上二十丁計り泳ぎ舟に乗り移り助かり給へり。
2 平盛俊(もりとし) 《地図》
北門の大将越中前司平盛俊は、明泉寺から南へ逃げ延びる途中で、源氏の猪俣小平六則網と一騎打ちとなり、双方むんずと組付いて 戦い盛俊が優勢となり則網が降参したため あぜ道で休んでいるところへ源氏の人見四郎が近づいてきた。近づく敵に気を奪われている最中に、盛俊は、則網に襲われ首を討たれてしまいました。
3 監物太郎(けんもつ) 《地図》
源平一の谷合戦で、東城戸を守っていた平知盛は、子知章と家来の監物太郎頼方(よりかた)とこの付近まできたとき、源氏軍に追い詰められ、この時監物太郎は知盛を助けようと知章とともに奮戦し、無事知盛を逃します。しかし、戦闘の中で、知章もまた敵に討たれてしまいます。最後に残った監物太郎は知章の仇と相討ち、命を散らしました。
この太郎の忠義心が地元住民の心に忠臣として大事に祀られるようになったのがこの場所です。
監物太郎はその中の一兵の首を取った。彼は矢種のある程を射尽くし太刀を抜いて戦ったが左の膝口を敵に射られ立上がらず討ち死にせり。 (新訳平家物語抜粋)』
4 源平勇士の墓 《地図》
上写真:中央は平知章の碑
下写真:右から平通盛(みちもり) この付近で源氏の木村源吾重章(中央)と相討ちで亡くなくなった。左は源氏方の猪俣小平六則の碑でこの付近で戦死した。彼らを供養する碑が源平仲良く祀られています。これらの碑はもっと南にありましたが道路拡張工事によって現在の地に移築されました。知章の碑はその時に建てられたものです。
10 平盛俊の墓 《地図》
北城戸の大将平盛俊は、明泉寺から南へ逃げる途中で、源氏の猪俣小平六則綱と一騎打ちとなり、盛俊が優勢となり則綱が降参したためあぜ道で休んでいるところへ、源氏の人見四郎が近づいてきたのに気を奪われていた盛俊に則綱が襲い、盛俊は首を討たれた
将門は、父:平良将、母:県犬養春枝女(あがたのいぬかいのはるえのむすめ)の子であるが、生まれた年月日は不詳。平安時代中期の豪族で、父は下総国佐倉(現千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、同市には将門町という地名も残っています。
将門は、下総で兵を起こし、坂東八ヶ国を平定し、自らを平新皇と称して政治の改革をはかったが即位後わずか2か月たらずで藤原秀郷、平貞盛らにより討伐された。享年38歳。これを「天慶の乱」といいます。原因は、確定していませんが、一族の争い、或いは、政治への不満からの戦いなどが言われています。
身分の低かった武士が力を見せた最初の戦いで、武士の台頭のはじまり、平清盛の時代へとつながっていきます。
(参考資料:敷地内の案内板、ウィキペディア)
平将門首塚
東京駅前の丸の内ビル群の中にあります。
江戸時代の寛文年間(1661年から1672年)、この場所は、酒井家上屋敷の中庭であり、歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところです。(説明板より)
酒井雅楽頭は、幕府大老。
伊達安芸は、仙台藩伊達 宗重(だて むねしげ)の通称である。
原田甲斐は、伊達藩の家老。
カエルの置物が多数あります。
・海外に赴任した官庁職員達が、「無事にカエル」、にあやかり赴任前にお参りにくる。
・左遷された会社員が、元の会社に無事に戻ってこられるように、蛙を供える。
・誘拐されたり、行方不明になった子供が無事帰ってこられるように、蛙を供える。
このような謂れがあります。
平将門首塚:東京都千代田区大手町1丁目2番1号(地図)