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この神社の創建については不詳であるが、言い伝えによれば源頼朝が創建したものと伝えられる。
もとの名を浮島神社といい、古くは水神社、水神宮、浮島宮などとも呼ばれ、「水神さん」として親しまれてきた。1872年、現社名に改名した。地域の鎮守神であるとともに隅田川一帯の守り神でもあり、水運業者や船宿など、川で働く人たちの信仰を集めたほか、「水神」の名から水商売の人々にも信仰された。
(参考資料:ウィキペディア)
本殿
鳥居 全景
神社由緒
参拝 境内
神楽殿 隅田川に面していた鳥居、壁で遮られています。
鳥居から入ると桜参道でスカイツリーはここから見えます
住所:東京都墨田区堤通2-17-1(地図)
1180年(治承4)、伊豆で挙兵した源頼朝が、敗れて房州に逃れ、再度、隅田川を渡る際に豪雨のため渡ることができなかった。その時、千葉介常胤(ちばのすけ つねたね)が当社に祈願して船を用意して大軍無事、川を渡たることができました。頼朝は感じ入り、1181年(養和元)、社領を寄付しました。以後、千葉氏の崇敬が厚く、宝物として月輪の紋をつけた千葉家の旗が伝わっています。
※千葉介常胤は、平安末期から鎌倉初期の武将で、千葉家を大大名にした人物で、源頼朝の信任があつかった。
本殿(三輪鳥居)
由緒
撫で牛
神社にある「なで牛」には、身体の悪いところと同じ牛の部位を撫でると病気が直るという言い伝えがあります。
包丁塚と小梅神社
牛島神社鳥居から東京スカイツリーが見えます。
住所:東京都墨田区向島1-4-5(地図)
1180年(治承4)、源頼朝は平家追討に向かうため、浅草の石浜に軍勢を揃えた際、浅草寺に参詣して戦勝を祈った。やがて鎌倉に幕府を開いた後も信仰を寄せた。鎌倉八幡宮造営に際しては、浅草から宮大工を呼んでいる。
徳川家康の信任もあつく、寺領500石をもらっています。今では、都内最古の寺院である浅草寺は、「浅草観音」の名称で全国的にあらゆる階層の人達に親しまれ、民衆信仰の中心地となっている。
(参考資料:浅草寺説明板より)
雷門
門左右に、風神、雷神の像が安置されています。
本堂
源頼朝の参詣
1180(治承4)年、源頼朝は、平家追討に向かうために浅草の石浜に軍勢を揃えた際、浅草寺に詣で、戦勝祈願をしました。又、鎌倉鶴岡八幡宮造営に際しては、浅草から宮大工を招いています。
このように、武将や文人の信仰を集めた、浅草寺は、その名を全国に広まっていきました。
金龍山浅草寺
伝法院
仲見世通り
宝蔵門
浅草寺の宝物の収蔵庫になっているため宝蔵門と名付けられました。
五重塔
基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。
二天門
境内案内図
路地裏(右の建物が仲見世の裏です)
境内から東京スカイツリーが見えます。
住所:東京都台東区浅草2-3-1(地図)
浅草寺HPは こちらから
三の鳥居をくぐり、太鼓橋にくると橋の両脇に源平池があります。本殿に向かって右が源氏池で左が平家池です。
北条政子が掘らせたと伝わる池。源氏池には島が3つ、平家池には島が4つ浮かび、それぞれ産と死を表すという。源氏池の島には旗上弁天社があります。
太鼓橋
源氏池
太鼓橋の右にある源氏池に通じる橋と源氏池
旗上弁天社
源氏池の島にある。周囲には源氏の二引きの白旗が多く見られる。
政子石
夫婦円満の祈願石で姫石ともいいます。
平家池
平家池が望めるようにある喫茶:風の杜
鶴岡八幡宮の各施設がわかる境内の配置図です。
施設案内へと入ってください。 (クリック)
頼朝の墓
鶴岡八幡宮の東隣に頼朝の墓があります。
頼朝墓への階段
階段の手前に白旗明神があります。
頼朝墓へ行く途中に畠山重忠屋敷跡があります。
源頼朝公 (1147~1199)
源頼朝公は、1147(久安3)年、源義朝の第3子として京都で生まれました。母は熱田神宮の大宮司藤原季範の娘といわれています。
13歳で初陣した1150年の平治の乱で敗れ、伊豆国蛭ヶ小島へ流罪となり、20年の歳月を伊豆で過ごします。
1180(治承4)年8月、平家打倒に立ち上がり、そして、1180(治承4年)年10月、父・祖以来源氏ゆかりの地である鎌倉へ入りました。 そして、鶴岡八幡宮を祀って源氏の氏神とし、同時に鎌倉の中心にすえて鎌倉の街造りを進めました。
1185(文治元)年の春、壇ノ浦で平氏を滅ぼし、“鎌倉殿”として武家政権の基盤を築くことになります。
1192(建久3)年、征夷大将軍に任ぜられ、1199(正治元)年正月13日、病でこの世を去りました。享年53歳。
(参考資料:鶴岡八幡宮HP)
(源氏山公園銅像)
鶴岡八幡宮内
舞 殿
静御前が、義経を慕う歌を舞ったところ。
吉野山峰の白雪踏みわけて 入りにし人のあとぞ恋しき
静や静しずのおだ巻きくり返し 昔を今になすよしもがな
頼朝は、その舞に怒りましたが、妻:政子が「私が静御前であっても同じように舞ったでしょう」と言って頼朝の怒りを静めました。『吾妻鏡』には、「まことにこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし。上下みな興感を催す。」と書かれています。
実際に静御前が舞ったのは若宮廻廊で、舞殿はその若宮廻廊の跡地に建てられています。
若宮 武内社
御祭神は武内宿禰命。神功皇后の功臣、長命な神様として知られている。
大銀杏
樹齢1000年といわれ、高さは推定30メートル、幹の太さは約7メートルあります。
2010(平成22年3月10日)、強風によって倒れました。現在は植え替えられています。
鶴亀石
白旗神社 由比若宮遥拝所(ようはいじょ)
白旗神社 源頼朝公、実朝公がお祀りされており
由比若宮遥拝所 八幡宮の元宮である由比若宮(材木座に鎮座)を、ここからお参りするところです。
鶴岡八幡宮の文学案内板
鶴岡八幡宮本殿
当宮は1063(康平6)年、源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。
その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、1180(治承4)年、鎌倉に入るや直ちに御神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、 1191(建久2)年には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。
現在の御本殿は、文政11年(1828)、江戸幕府11代将軍徳川家斉の造営による代表的な江戸建築で、 若宮とともに国の重要文化財に指定されています。
(参考資料:鶴岡八幡宮HPより HPはこちらから)
商店街近道
二の鳥居
段葛(だんかずら)
政子の安産を祈願して造られた参道で、若宮大路(史跡)の中心部となります。
三の鳥居
太鼓橋
神奈川県鎌倉市雪ノ下二丁目1-31 (地図)
1180年。平家追討の軍を起こした頼朝公は関東・伊豆を平定し、10月、富士川で平家と一戦を交わるため。この黄瀬川八幡の地に本営を造営しました。兄頼朝の挙兵を知って、奥州よりかけつけた義経とこの境内にて対面し、平家打倒を誓いました。
今も境内西側に兄弟対面時に座った石があり、頼朝自ら植えたとされる「ねじり柿」があります。
八幡神社或いは対面石神社とも言われています。
大鳥居
大鳥居から境内まで約200mの参道があって、桜が植えられています。桜満開の景観はすばらしいです。
中鳥居
境内図
本殿
本殿左側に対面石があります
奥が頼朝が座った石、手前が義経が座った石
頼朝が植えた渋柿の木
白旗社
頼朝公が祀られています
対面石神社(地図)
静岡県駿東郡清水町八幡39(三島駅から約2.5K)
1180年、源頼朝が源氏再興を祈願するために三嶋大社にお参りした途中で休憩の為に休んでそのまま寝てしまった場所に社が建てられそこを間眠神社(まどろみじんじゃ)と呼ぶようになった。
間眠神社(地図)
静岡県三島市東本町2-11(三島駅より約1.5K)
源頼朝が流された蛭が島の周りの道路に頼朝や北条氏に関する絵が埋め込まれています。頼朝挙兵~平家打倒の絵を取り出しました。
平清盛
平安時代末期、平家全盛の時代でその棟梁が平清盛でした。
文覚上人(もんがく)
後白河法皇の怒りにふれ、ここ韮山に流さ、同じ時代に蛭が島に流されていた源頼朝に旗揚げを促しました。
源氏再興の旗揚げ
源頼朝は、1180年8月17日、伊豆の平家一門の山木判官:平兼隆を夜襲して源氏再興の旗揚げをしました。
富士川の戦い
源氏(白)対平家(赤)の初戦です。紅白対決はここからきました。
一の谷の戦い~屋島の戦い~壇ノ浦の戦いと続きついに平家は滅亡しました
一の谷合戦
義経の鵯越の逆落としで有名な戦いで、奇襲作戦が功を奏して平家軍を海へ追い落としました。
兵庫県神戸市須磨
浜にあった平家の陣に義経軍が山の頂上から一気に攻め込んだので平家は慌てふためき海に逃げ出しました。
屋島の戦い
四国の屋島に平家は陣を敷きました。そこに義経軍は一気に攻め込み大勝利をあげます。
壇ノ浦の戦い
関門海峡での戦いで、平家はここで滅亡しました。
源氏の大将:源義経と平家の大将:平知盛の銅像です。
清盛の妻:二位尼が8歳の安徳天皇を抱いて海に飛び込み自害しました。
蛭ヶ島(ひるがじま)は、静岡県伊豆の国市にある源頼朝の流刑地と伝わる史跡です。
平治の乱で敗れた源頼朝は1160年(永暦元年)に伊豆に配流され、のちに挙兵するまでの20年近くをこの地で過ごし、その間に北条政子と結婚しています。しかし、「蛭ヶ島」という言葉は「吾妻鑑」に頼朝の流刑地は「蛭が島」と記されていますが、この場所である証拠はありません。
蛭が島
1177(治承元)年結婚 頼朝(31歳) 政子(21歳)
蛭が島
頼朝は、1192(建久3)年に征夷大将軍に就任、そして、鎌倉幕府が始まりました。
源氏の家系図
蛭が島は公園として整備されています
近くを伊豆急鉄道が走っています
蛭が島は、韮山駅から10分くらいのところにあります。
蛭が島(地図)
静岡県伊豆の国市四日町17-1
(伊豆の国観光パンフレット)
頼朝政権の誕生から鎌倉幕府を支えてきた北条氏の史跡が多く残っているのが伊豆の国市韮山です。
成福寺(じょうふくじ)
1289年、八代北条時宗の子:政宗が両親の遺骨の一部を鎌倉より持ち帰り、成福寺を建立してそこに墓を造り弔いました。歴代:北条氏の菩提を弔っています。この場所は、北条家の館のあった所です。時宗が政子と頼朝の新居を造ったのもこの辺りだったと言われています。
信光寺
武田五郎信光公の開基で、公は尼将軍(北条政子)の時代に伊豆の国に住んだとの記述があります。後の武田信玄は子孫になります。
成願寺(じょうがんじ)
頼朝が三嶋大社にお参りしたとき、老婆が餅を献上したと言われ、後年、頼朝がお礼はなにがいいかと尋ねたら、寺を建立してほしいと答えたので建てたお寺がこの成願寺と言われています。
静岡県伊豆の国市原木158(韮山駅から北へ約1k)
史跡地図
この地に配流された頼朝は、1177年に地元の実力者である北条時政の娘:北条政子と結婚しました。しかし、その裏には、悲しい恋の物語がありました。
八重姫の悲恋物語
八重姫には、頼朝との間に生まれた子:千鶴丸がいました。
静堂 真珠院の中に八重姫供養堂があります
八重姫が身を投げた古川がそばを流れています
侍女たちは、八重姫を弔ったあと伊東に帰る途中で自害しました。
本堂 十三重の塔
八重姫を弔ったのが真珠院の始まりです
山門
真珠院 静岡県伊豆の国市中条145-2
(地図)
(伊豆の国観光パンフレット)
この辺りは、北条氏の邸宅があった場所で、政子もこの辺りで生まれ、育った所です。
北条政子産湯の井戸
標識がたっているので分かりやすいです
突き当りに産湯の井戸があります
政子の結婚
政子は、気性の激しい女性だったようです。1177年、親は、平家方の山木氏に嫁がせようとしましたが、政子は、頼朝への気持ちを抑えられず、婚礼の日にその場を抜け出し、頼朝のもとに行きました。
尼将軍
頼朝亡き後、子供の頼家、実朝を将軍にしましたが、二人が暗殺された後は、後鳥羽上皇と対立して、1221年承久の乱で勝利して、尼将軍として鎌倉幕府の指揮をとりました。1225年、69歳で亡くなりました。
産湯の井戸(地図)
静岡県伊豆の国市寺家字守山1216(韮山駅徒歩15分)
(伊豆の国観光パンフレット)
北条時政公は、1160年、14歳で配流となった源頼朝を監視する役職にいたが、娘:政子が頼朝に嫁ぎ、1180年に頼朝が源氏再興の旗を揚げると平家目代の山本兼隆を攻め、以降、平家打倒、鎌倉幕府樹立に大いに活躍しました。頼朝亡き後、鎌倉幕府初代執権として働きました。享年:78歳
願成就院は、1189年、頼朝の奥州藤原氏成敗の戦勝を祈願して、北条時政公が建立しました。吾妻鑑には、時政公が大伽藍と南塔を建立、二代義時公が南新御堂、そして、三代泰時公が北条御堂と北塔を建立したことが書かれています。
北条時政公墓
北条時政公
北条家系図
願成就院
願成就院入り口 奥に見える鳥居は守山八幡宮
願成就院跡
守山八幡宮(願成就院の隣にあります)
願成就院を守護する神社
願成就院(地図)(韮山駅から15分くらいです)
静岡県伊豆の国市守山地区は、平安時代の終わりの900年前ごろに北条氏が移り住みました。室町時代までの300年余りの間、この地域は、北条氏の拠点として、そして、伊豆地域の中心として機能しました。
韮山駅
正面:堀越御所跡 手前:政子産湯の井戸 左:北条氏邸宅跡
伝堀越御所跡
堀越公方と呼ばれた足利正知の御所があったと伝えられている場所です。
室町時代の後半、大名の勢力争いが激化し、関東地方では、京都にある室町幕府に従う勢力と対抗する勢力が争っていました。1457年、将軍:足利義政は、関東支配の鎌倉公方として兄の足利政知を派遣しました。しかし、政知は戦乱のため関東(鎌倉)まで行けず韮山の堀越の地に舘を造って身をおちつけました。これが堀越御所跡です。しかし、1493年、この御所は、政知の子の時に北条早雲によって滅ぼされました。
北条氏邸宅跡(御所跡からすぐの場所)
韮山駅から15分ほどの場所です
北条氏邸宅跡(地図)
静岡県伊豆の国市寺家中条
三嶋大社は、奈良・平安時代の書物に登場します。
源頼朝が源氏再興を祈願して旗揚げをした神社で、その成功から、多くの武将から信仰されています。頼朝の妻:北条政子奉納の国宝「梅蒔絵手箱及び内容一具」が展示されています。
三嶋大社社殿
源頼朝 北条政子腰掛石
厳島神社
安達藤九郎盛長 警護の跡
1180年、頼朝が源氏再興の祈願をしたとき、盛長がこの場所で護衛したと言われています。
推定樹齢:750年のケヤキ
たたり石
東海道の交通整理の石
三嶋大社地図 (三島市大宮町2)
三島駅より約1K
先日、PCを立ち上げたら以下のメッセージが表示されました。W11へアップグレードのお誘いです。
設定を明けると「おめでとうございます。アップグレードするための最小限の機能を備わっています。」とでていました。それならとアップグレードに兆戦しました。
ダウンロード、インスツール、再起動と進み時間は約90分です。
スタートメニューが画面の中央にきてよく使うアプリをピン留めすることができるようです。雰囲気的にはスマホに似てきたようです。
周辺機器がW11対応しているかのチェックをしてみたらでプリンターが動かなかったのでキャノンのサイトからW11用のドライバーを入手する。プリンターの設定にマニュアルを読みながら2日ほどかかってやっと動きだしました。目についたところでは年賀状ソフト筆王が対応してなくて1600円ほどの出費がありました。
Windowsは、W95から爆発的に広まりこのときからわからないなりにPCはじめましいた。2001年にWXP,2009年にW7が出てきました。2015年W10が最終だと一部で言われていましたが今回W11が出ましたが以前のワクワク感はありませんでした。