義経 平家史蹟50 遷都1
福原遷都コース1
平安時代末期、平家一門が日宋貿易の港である大輪田泊りを見晴らす福原の地(現在の兵庫県神戸市兵庫区)を領有し、ここに多くの邸宅を構えた。1180年(治承四年)、政権の強化を図った平清盛が孫の安徳天皇を奉じ都造りをはかったのが「福原遷都」である。
しかし、都造りは途中で頓挫し、半年で平安京に還都したため実態としての都は完成しなかった。
「平家物語」などには平清盛が福原の地にいくつかの邸宅をもっていたことが書かれている。又、雪見御所(清盛の別邸)の北に安徳天皇が福原遷都の半年を過ごした「本皇居の平野殿」のあったこと、又清盛の子息宗盛邸のあった可能性が当時の貴族の日記の記述などから知られる。発掘調査でも上祇園町でも貴族の邸宅跡の庭の存在が確認されている。
古記録と発掘調査の成果から、この地に「福原京」の時期を中心とする平家の邸宅がいくつも存在することが推測できる。
ここ「平野」の地は、まさにその名の示すとおり『平』家の本拠があった『野』と言える。
福原と言う地名は無く、現在の平野・石井・夢野・荒田一体の総称であり、800年前には、福原とよんで居たのかもわからない。
清盛は、福原を理想の地とするため、天満神社、八幡神社、熊野神社、厳島神社などをこの地に勧請するとともに、比叡山を模して丹生山に日吉山王権現を祀り、福原の守りとしたり、多聞寺や妙法寺を鞍馬山になぞらえて福原鎮護の霊場としたりしている。
福原は、清盛が心血を注いで築こうとした理想都市だったのである。
(野村貴郎著 「源義経 鵯越の坂落し」 神鉄観光事業部すずらん編集室)
福原遷都関係年表
1118年 平の清盛生誕
1159年(平治元年) 保元の乱で清盛(41歳)勝利
1118年(元永元年)平清盛生誕
1159年(平治元年)保元の乱で清盛(41歳)勝利。
1167年(仁安二年)平清盛(49歳)、太政大臣となり平家が最も栄えたとき
1168年(保安三年)清盛(50歳)太政大臣を辞し神戸の能福寺にて出家し、福原の地に別荘「雪の御所」を建て休養する
1180年(治承四年)清盛(62歳)の外孫安徳天皇が即位する安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇をひきつれ
6月2日、神戸福原に都を移す(福原遷都)
11月26日都を京に戻す
1181年(養和元年)清盛(63歳)、あっちっち病という熱病に侵され死亡
1184年(寿永三年)平家、一の谷の戦いで破れ屋島に逃げる
黄字:福原遷都コース《 地図 》
(赤字:大輪田泊りコース)
2 厳島神社
3 願成寺
4 熊野神社
5 雪見御所
6 湊山温泉
7 祇園神社
8 鈴麦
9 荒田神社
10 宝地院
12 平業盛塚碑
11 氷室神社
13 夢野八幡神社
13 夢野八幡神社
神戸市兵庫区氷室町1-5 (地図)
雪見御所 《地図》
平清盛は、1167年(仁安二年)に太政大臣を辞しこの地に隠居し、没するまでの約10年間を別荘で過ごしたといわれています。その間この別荘で、大輪田の泊の修築や対宋貿易・福原遷都などの大事業が計画された。清盛亡き後、平家都落ちの際に、全てを焼き払って落ち延びた。湊山小学校北側に設置され、この辺りを雪御所町と呼びます。
6 湊山温泉 《地図》
「山槐記(さんかいき)」に1179年(治承三年・福原遷都の前年)6月に「清盛邸を去る1丁ばかりにある湯屋へ車で渡らせ給う」と書かれています。雪の御所から一丁の場所が今の天王川沿いの鉱泉が湧き出る「天王・湊山温泉」付近と思われる。
上:湊山温泉、下:天王温泉(05年に廃業の予定) 石碑には「天王温泉は平清盛、豊太閤に由緒ある温泉にして橋を渡りて山沿いに二丁行けば守護神と豊国稲荷あり」と書かれています。
祇園神社 《地図》
平清盛は、経ケ島を築造の際、ここにあった山寺で海潮を聞きながら計画を練ったと伝えられています。潮音山上伽寺はこの神社の裏山にあったと伝えられています。階段は90段、眺めは最高で大輪田の泊まで見渡せた。
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