義経 平家打倒46 淡路島小宰相
小宰相(こざいしょう)の塚:お局塚
南あわじ市伊加利
1184(寿永3)年、小宰相は、夫:通盛(みちもり)が一ノ谷の戦いで討ち死(享年32歳)にすると、鳴門海峡で船から身をなげ、夫の後を追いました。享年19歳
小宰相は刑部卿藤原憲方の娘で、絶世の美女と歌われた小野小町に例えられるほどの宮中一の美人であった。平通盛の妻。通盛は、清盛の弟:平教盛(のりもり)の息子。
平家物語巻九{小宰相身投」
通盛の家来が北の方(小宰相)の船に参って、「ご主君(通盛)は湊川の川下でお討たれになられました」と伝えると北の方は、なんともご返事もなさらず、衣をひきかぶって泣き伏された。・・・・
八島につく前の宵に、北の方は船端へ出向き、漫々とひろがる海上の月の沈む山の端を西方浄土と思われたか念仏を百遍ほどお唱えになり「南無西方極楽世界の教主、阿弥陀如来、ご本願のとおり浄土へ導きくださって、むつまじい仲のまま不本意に別れた夫婦を、かならず極楽浄土の一つ蓮の上へお迎えください」と、泣く泣くはるかかなたに向かってかきくどき、「南無」と唱える声とともに、海に身を投げお沈みになった。・・・・・人々は救出に務めたが、その甲斐もなく、北の方は息絶えた。夫:通盛の鎧を身にまとわせ海に沈めました。
※刑部省(ぎょうぶしょう) 罪人を裁く部所で郷はそこの長官。
お局塚全景
小宰相供養碑
身を投げた鳴門海峡
洲本から28号線で養宜上(ようぎかみ)を右に(うずしおライン)→志知→伊加利交差点(お局塚入口の標識)を右に曲がり北上して約1500mで次の参道入口の標識があります。
参道入口には小さな標識
お局塚の場所は山の頂上にあります。(中腹からの景色)
お局塚の地図は→こちらから
南あわじ市伊加利
願成寺に二人の石塔があります。
(通盛正室 子供諸々霊 小宰相殿成人侍女 諸々の霊)
兵庫県神戸市兵庫区松本通2丁目4-11
【 平家物語 小宰相身投その2 】
北の方とは、頭の刑部卿憲方(とうのぎょうぶきょうのりかた)の娘で、宮中第一の美人の評判の高い、名を小宰相と申す方であった。通盛は彼女を一目見て恋慕の思いをいだき、はじめは歌を詠み、次に手紙を書いたが無視されてしまった。
こうして三年が過ぎ、通盛はこれが最後と小宰相に手紙を届けさせた。使いのものは、小宰相の御車の中に手紙を投げ入れた。彼女は捨てるわけにもいかずに持っていたが女院の前で落としてしまった。女院が読んでみると一首の歌があった。
我が恋は細谷河のまろ木橋 ふみかへされてぬるる袖かな
(私の恋は細い谷川にかかる丸木橋のようなもの、幾度も踏み返されて水に濡れるように、文を返されて悲しみの涙に袖も濡れています)
その歌に女院自身が返された
ただたのめ細谷河のまろ木橋 ふみかえしてはおちざらめやは
(ただいちずに頼みとしていなさい、細い谷川の丸木橋を踏み返すなら落ちないことがないように、返事の文を返すからには、お心に従わないことはありません)
容貌の美しさは幸せのもとなので、通盛は彼女を賜って、深い愛情で結ばれることとなった。そして、ついに同じあの世への道につかれたのであった。
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