義経 平家打倒44 淡路島絵島
絵島
平家物語巻五「月見」 杉本圭三郎訳
(治承4)年秋、福原の新都におられる人々は、名所の月を見ようと、ある者は源氏の大将(源氏物語の光源氏)の昔を偲んで、須磨から明石の浦伝いに行き、淡路の海峡を渡って、絵島の磯の月を見る。(下の説明板に書かれています)
絵島は、淡路島の北端にあって、昔から月の名所として知られ、和歌に歌われ、平家物語にも出てきます。
また、別名「おのころ島」と呼ばれ。古事記や日本書紀の国生み神話に 登場する「おのころ島」は、この島のことで日本最初の国土とも言われています。
絵島全景(後ろに明石海峡大橋が見えます)
西行法師の歌
【 平家物語 落足その3 】
戦いに敗れたので、安徳天皇をはじめ生き残った者は皆、御船に乗って海上に出た。
潮にひかれ、風にのって紀伊路へ向かう船や葦屋の沖で波に揺られている船もある。あるいは、須磨から明石へ浦づたいに進むものあるいは淡路の海峡を漕ぎ渡り絵島の磯にただよう船、一の谷の沖で揺られる船など停泊のあてのない船路の夜であった。
このように風にまかせて、浦々島々を漂って行くと、たがいに生死もわからない。
国を従えること十四ヶ国、軍勢を結集したこと十万余騎、一日で都に行けるほどに近づいたこともあったので今度こそはと期待していたが、一の谷も攻め落とされ人々は皆心細くなられた。
岩の上に厳島神社があり、鳥居の上に鳥がとまっています。
大輪田の泊りの改修工事に際して、難工事であったため。龍神の怒りを治めるため、清盛の小姓:松王丸が自らすすんで人柱となりました。松王丸を偲び、供養塔を建てました。
約2000万年前の岩肌が露出しています。
800年くらい前の清盛の時代もこのような島の姿だったでしょう。
絵島から見た岩屋港と明石海峡大橋
人を乗せる高速艇が明石港に向かって出港しています。橋ができるまでは、この左側からフェリーが車を乗せて明石港との間を往復していました。
絵島 (地図)
淡路市岩屋
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