義経 打倒平家45 淡路島煙島
淡路島の南端にある福良湾にある小さな島:煙島(けむりじま)の紹介です。
1184(寿永3)年2月、一の谷の合戦で敗れた平経盛(つねもり 清盛の弟)は、屋島に向かって逃げる途中、福良湾で休んでいると一の谷の戦いで熊谷直実に首を切られた敦盛の首が届けられた。経盛は、煙島で敦盛の首を荼毘にふし、煙が立ち上ったので煙島と言われています。
島には、海に面して鳥居がたっており登って行くと厳島神社と敦盛の首塚と言われる石の祠があり、また、安徳天皇が7日間滞在したと言われる跡もあるらしいです。
平家物語巻九「落足(おちあし)」
(平家敗走 経盛も)
1184(寿永3)年2月の一の谷の合戦で敗れた平家軍は、みな御船に乗られたて海上にお出になる。風にひかれて紀伊路へ向かう船、あるいは須磨から明石浦づたいに進むもの、また、淡路の海峡を漕ぎ、絵島が磯に漂って、波間をかすかに鳴き渡る群れからはぐれた小夜千鳥の声をきいて・・・・一の谷も攻め落とされた人々はみな心細くなられた。
※一の谷合戦で敗れた平家がばらばらにあわてふためき逃げていく様子が描かれており、経盛もその中にいたと思われます。
平家物語巻九「敦盛最期」
熊谷直実は、敗れた平家を追って磯の方に馬を進めると立派な鎧を着、馬に金覆輪(きんぷくりん)の鞍を置いて乗った武者が一騎、沖の船めざして、・・・・。熊谷が扇をあげて招くと武者は引き返し、なぎさで馬を押し並べて組み付きどうと落ちて取り押さえた。甲をあげてみると年は16~7、薄化粧をして歯を染めているまことに美しい若武者であった。わが子を思い出して助けようとしたが、若武者は「ただすみやかに首をとれ」と言われた。・・・・・・後で聞くと経盛の子息敦盛で笛の名手として知られていた。熊谷直実が仏門に入ったのは、敦盛を討ったのが原因で敦盛供養のためと言われています。
※金覆輪とは、鞍(などの縁飾りに、金または金色の金属を用たもの。
福良湾遠景
岸からの最短距離(約150m)から見た煙島
島の左に鳥居が見えます。
煙島 (地図)
南あわじ市福良湾内
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