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2021年10月

2021.10.28

義経 打倒平家49 清盛の愛人谷屋の女房


清盛と女性の話は多いです。谷屋の女房は側室の一人です。


平清盛が、この地にいた谷家の娘を見初めて、側室として嫁がせた時に渡った橋として名付けられたと言われています。
長田神社(兵庫県神戸市)の入口西側にあります。



 




長田神社の入口に八雲橋、入口左側に谷御所橋があります。







長田神社(土塀内)の横に流れている川にかかっています。

 

清盛は、女性に優しかった、甘かった、女好きであった。どれにあてはまるのでしょうか。
その性格が災いの元で、平家が滅びました。
池禅尼の申し出で頼朝を流罪にした。義朝の側室であった常磐御前の美しさにひかれて側室になることで義経を生かした。後に温情をかけた頼朝、義経によって平家は、滅ぼされました。
頼朝が平家打倒の兵をあげたのを知った清盛は、自分が死んだときは、頼朝の首を墓前に供えよと言って死んでいきました。恩を仇で返したと清盛は死んでも死にきれなかったのでしょう。


長田神社と谷御所橋
兵庫県神戸市長田区長田町3丁目 (地図

 

2021.10.26

義経 打倒平家48 淡路島静御前

静の里公園

静の里公園内には、静御前と義経の墓があります。

静御前は、義経の死後、淡路島の志筑辺りに住んで義経の供養をしました。

 

左静御前墓  右源義経の墓

 

 

 

 静御前墓碑


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墓碑の後ろにある木
 


 

静の里公園入口


 

 


静御前と義経を偲んだ花壇:しずのおだまき
左は、肉厚植物でで義経の勇気と強さを
右は、低く枝垂れる植物で静御前の思いやり優しさを
表しています





 

静の里公園 (地図
淡路市津名町志筑795-1

 

静 御 前(淡路島)

 



静 御 前

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京の白拍子であった静は、その舞の美しさに、義経に見初められ側室になるが、義経が奥州衣川の戦いで討死したと聞くや、淡路島に移り住み、建暦元年(1211年)47才で淋しくその生涯を閉じた。

。      

静の里公園  ≪地図≫

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公園入り口と園内にある宝塔

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静御前のお墓があります。

兵庫県淡路市の静御前お墓の紹介


 

静御前は、義経亡き後、尼になって淡路島の志筑のこの福田寺に住み義経を供養しました。このお寺の隣りに静御前と義経のお墓があります。今は、静の里公園として管理され多くの人々が参拝に訪れています。

福田寺




静御前石碑

福田寺 (地図
兵庫県淡路市志筑

 

 

2021.10.22

義経 打倒平家47 太山寺

太山寺(たいさんじ)   

 兵庫県神戸市西区伊谷川町前開224 【地図


平家武将の尊崇も厚く、平家一門書字の伝説をもつ法華経をはじめ武将の鎧や腹巻など平家ゆかりの品が多数伝わっている。

当寺は天台宗。973年(天延元年)12月8日の年紀をもつ「播州太山寺縁起」には、藤原鎌足公の子・定恵和尚の開山、716年(霊亀二年)公の孫・宇合(不比等の子)の建立と伝える。宇合が明石浦摩耶谷(まや)の温泉で療養中、七堂伽藍を整備し薬師如来の尊像をを安置した。

1334年(建武中興)の時は、朝敵北条勢を討つため当寺衆徒のめざましい活躍があった。寺運は栄えこの地方の一大法城として南北朝時代には支院四十一ヶ坊・末寺八ヶ寺・支社六ヶ社をもち僧兵も養っていた。
現在は、龍象院・成就院・遍照院・安養院・歓喜院の五ヶ坊。現存の本堂は、神戸市内唯一の国宝。





太山寺伽藍配置図

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仁王門
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重要文化財・室町中期
重曹の楼門であったが、上層部を撤去したときに大幅に改築、現在は入母屋造、本瓦、棟高8mの八脚門です。

 

仁王門から本殿入り口に通じる路、石垣に白壁。

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本堂 (国宝 鎌倉時代)
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創立は不詳。1285年(弘安八年)の火災で前身の建物が焼失し、1293~99年(永仁年間)に再建された。
規模は、柱真真間で正面20.82m、側面17.76mと大きい。

 

三重塔 (県指定文化財)
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心柱宝珠柱の銘と棟札から1688年(貞享五年)の建立とされている。各層四隅の尾垂木の周りには邪鬼を置いている。初層内部の須弥檀には、等身大の大日如来座像及び四天王立像が安置されている。

 

阿弥陀堂
1688年(貞享五年)に再建された建物。
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阿弥陀如来座像 (重要文化財)
鎌倉初期のもので、約2.74m
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閼伽井橋(あかいばし)
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橋を渡ると稲荷舎と地蔵堂がある。地蔵堂の下から巌窟を通って水が湧き出ていた。この霊水は仏前に供える清浄水(あか)です。橋の上流には花崗岩の岩肌に磨崖仏(不動明王像)が刻まれている。鎌倉時代の作らしい。

 

護摩堂(江戸時代中期)
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観音堂 
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羅漢堂(江戸時代後期) 
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地蔵尊



陽明学者熊沢藩山の閉居跡
元岡山藩士 寛文9年(1669年)51歳の時、幕命により播磨国明石藩松平信之の預かりとなり、太山寺に幽閉される。
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安養院 
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成就院 
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龍象院
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仁王門から入って本堂に通ずる路を歩いていくと権勢を誇った頃の雰囲気が残っています。今は訪れる人もほとんどありませんが、平家全盛の頃、武将たちが通った当時の繁栄ぶりが偲ばれます。
「播州太山寺伽藍之図」そのままの配置で残されています。









2021.10.17

義経 平家打倒46 淡路島小宰相

小宰相(こざいしょう)の塚:お局塚

南あわじ市伊加利

1184(寿永3)年、小宰相は、夫:通盛(みちもり)が一ノ谷の戦いで討ち死(享年32歳)にすると、鳴門海峡で船から身をなげ、夫の後を追いました。享年19歳
小宰相は刑部卿藤原憲方の娘で、絶世の美女と歌われた小野小町に例えられるほどの宮中一の美人であった。平通盛の妻。通盛は、清盛の弟:平教盛(のりもり)の息子。

平家物語巻九{小宰相身投」
通盛の家来が北の方(小宰相)の船に参って、「ご主君(通盛)は湊川の川下でお討たれになられました」と伝えると北の方は、なんともご返事もなさらず、衣をひきかぶって泣き伏された。・・・・

八島につく前の宵に、北の方は船端へ出向き、漫々とひろがる海上の月の沈む山の端を西方浄土と思われたか念仏を百遍ほどお唱えになり「南無西方極楽世界の教主、阿弥陀如来、ご本願のとおり浄土へ導きくださって、むつまじい仲のまま不本意に別れた夫婦を、かならず極楽浄土の一つ蓮の上へお迎えください」と、泣く泣くはるかかなたに向かってかきくどき、「南無」と唱える声とともに、海に身を投げお沈みになった。・・・・・人々は救出に務めたが、その甲斐もなく、北の方は息絶えた。夫:通盛の鎧を身にまとわせ海に沈めました。

※刑部省(ぎょうぶしょう) 罪人を裁く部所で郷はそこの長官。

 

お局塚全景

 

小宰相供養碑

 

身を投げた鳴門海峡

 



洲本から28号線で養宜上(ようぎかみ)を右に(うずしおライン)→志知→伊加利交差点(お局塚入口の標識)を右に曲がり北上して約1500mで次の参道入口の標識があります。


参道入口には小さな標識

 

お局塚の場所は山の頂上にあります。(中腹からの景色)


お局塚の地図は→こちらから 
南あわじ市伊加利

 

 

願成寺に二人の石塔があります。
(通盛正室 子供諸々霊 小宰相殿成人侍女 諸々の霊)

兵庫県神戸市兵庫区松本通2丁目4-11

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【 平家物語 小宰相身投その2 】

北の方とは、頭の刑部卿憲方(とうのぎょうぶきょうのりかた)の娘で、宮中第一の美人の評判の高い、名を小宰相と申す方であった。通盛は彼女を一目見て恋慕の思いをいだき、はじめは歌を詠み、次に手紙を書いたが無視されてしまった。

こうして三年が過ぎ、通盛はこれが最後と小宰相に手紙を届けさせた。使いのものは、小宰相の御車の中に手紙を投げ入れた。彼女は捨てるわけにもいかずに持っていたが女院の前で落としてしまった。女院が読んでみると一首の歌があった。
我が恋は細谷河のまろ木橋 ふみかへされてぬるる袖かな
(私の恋は細い谷川にかかる丸木橋のようなもの、幾度も踏み返されて水に濡れるように、文を返されて悲しみの涙に袖も濡れています)
その歌に女院自身が返された
ただたのめ細谷河のまろ木橋 ふみかえしてはおちざらめやは
(ただいちずに頼みとしていなさい、細い谷川の丸木橋を踏み返すなら落ちないことがないように、返事の文を返すからには、お心に従わないことはありません)

容貌の美しさは幸せのもとなので、通盛は彼女を賜って、深い愛情で結ばれることとなった。そして、ついに同じあの世への道につかれたのであった。

 

 

2021.10.14

義経 打倒平家45 淡路島煙島

淡路島の南端にある福良湾にある小さな島:煙島(けむりじま)の紹介です。

 

1184(寿永3)年2月、一の谷の合戦で敗れた平経盛(つねもり 清盛の弟)は、屋島に向かって逃げる途中、福良湾で休んでいると一の谷の戦いで熊谷直実に首を切られた敦盛の首が届けられた。経盛は、煙島で敦盛の首を荼毘にふし、煙が立ち上ったので煙島と言われています。
島には、海に面して鳥居がたっており登って行くと厳島神社と敦盛の首塚と言われる石の祠があり、また、安徳天皇が7日間滞在したと言われる跡もあるらしいです。

 

平家物語巻九「落足(おちあし)」 


(平家敗走  経盛も)


1184(寿永3)年2月の一の谷の合戦で敗れた平家軍は、みな御船に乗られたて海上にお出になる。風にひかれて紀伊路へ向かう船、あるいは須磨から明石浦づたいに進むもの、また、淡路の海峡を漕ぎ、絵島が磯に漂って、波間をかすかに鳴き渡る群れからはぐれた小夜千鳥の声をきいて・・・・一の谷も攻め落とされた人々はみな心細くなられた。
※一の谷合戦で敗れた平家がばらばらにあわてふためき逃げていく様子が描かれており、経盛もその中にいたと思われます。

 

 

平家物語巻九「敦盛最期」


熊谷直実は、敗れた平家を追って磯の方に馬を進めると立派な鎧を着、馬に金覆輪(きんぷくりん)の鞍を置いて乗った武者が一騎、沖の船めざして、・・・・。熊谷が扇をあげて招くと武者は引き返し、なぎさで馬を押し並べて組み付きどうと落ちて取り押さえた。甲をあげてみると年は16~7、薄化粧をして歯を染めているまことに美しい若武者であった。わが子を思い出して助けようとしたが、若武者は「ただすみやかに首をとれ」と言われた。・・・・・・後で聞くと経盛の子息敦盛で笛の名手として知られていた。熊谷直実が仏門に入ったのは、敦盛を討ったのが原因で敦盛供養のためと言われています。
※金覆輪とは、鞍(などの縁飾りに、金または金色の金属を用たもの。

 

福良湾遠景

 

岸からの最短距離(約150m)から見た煙島

 

島の左に鳥居が見えます。

 

煙島  (地図
南あわじ市福良湾内

 

2021.10.11

義経 平家打倒44 淡路島絵島

絵島


平家物語巻五「月見」 杉本圭三郎訳


(治承4)年秋、福原の新都におられる人々は、名所の月を見ようと、ある者は源氏の大将(源氏物語の光源氏)の昔を偲んで、須磨から明石の浦伝いに行き、淡路の海峡を渡って、絵島の磯の月を見る。(下の説明板に書かれています)

絵島は、淡路島の北端にあって、昔から月の名所として知られ、和歌に歌われ、平家物語にも出てきます。
また、別名「おのころ島」と呼ばれ。古事記や日本書紀の国生み神話に 登場する「おのころ島」は、この島のことで日本最初の国土とも言われています。

 

絵島全景後ろに明石海峡大橋が見えます)

 

 

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9c

 

 

西行法師の歌

 

 



【 平家物語 落足その3 】


戦いに敗れたので、安徳天皇をはじめ生き残った者は皆、御船に乗って海上に出た。
潮にひかれ、風にのって紀伊路へ向かう船や葦屋の沖で波に揺られている船もある。あるいは、須磨から明石へ浦づたいに進むものあるいは淡路の海峡を漕ぎ渡り絵島の磯にただよう船、一の谷の沖で揺られる船など停泊のあてのない船路の夜であった。
このように風にまかせて、浦々島々を漂って行くと、たがいに生死もわからない。

国を従えること十四ヶ国、軍勢を結集したこと十万余騎、一日で都に行けるほどに近づいたこともあったので今度こそはと期待していたが、一の谷も攻め落とされ人々は皆心細くなられた。

 

 

岩の上に厳島神社があり、鳥居の上に鳥がとまっています。
大輪田の泊りの改修工事に際して、難工事であったため。龍神の怒りを治めるため、清盛の小姓:松王丸が自らすすんで人柱となりました。松王丸を偲び、供養塔を建てました。





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約2000万年前の岩肌が露出しています。
800年くらい前の清盛の時代もこのような島の姿だったでしょう。

 

 

 島から見た岩屋港と明石海峡大橋
人を乗せる高速艇が明石港に向かって出港しています。橋ができるまでは、この左側からフェリーが車を乗せて明石港との間を往復していました。

 

絵島 (地図
淡路市岩屋

 

 

 

 

 

2021.10.09

義経 打倒平家43  淡路島平家供養碑 

平家供養碑

一の谷の戦いで敗れた平家の武士たちは、領地であった淡路島に逃れるが追ってきた源氏軍と現在の夢舞台あたりで戦いがあり敗れてしまいました。そして、山の中に逃げ、花さじきあたりで隠れ住み、自分たちの大将であった平通盛や一門の人の供養のために造ったと言われています。
このあたりには今でも、「平(たいら)さん」という家があり、平家に関係のある地名や伝説が残っています。

 

平家供養碑

 

石碑には何も書かれていません

 

 

 

花さじきから見た景色


史跡は、花さじき案内所の裏側にあります。
あわじ花さじき  (地図
淡路市楠本2865-4

 

 

 

2021.10.06

義経 打倒平家42 淡路島梶原氏

淡路島沼島(ぬしま)の源平に関する史跡を紹介します。


梶原景時の五輪塔



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案内板

神宮寺 兵庫県南あわじ市沼島(ぬしま)2523
地図





沼島八幡神社



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沼島(ぬしま)



夕陽



沼島へは、土生(はぶ)港から10分くらいです



沼島への地図は こちらから

 

 

2021.10.03

義経 打倒平家41 瀬尾兼康公

妹尾太郎兼康は1183(寿永2)年、平敦盛(たいらのあつもり)に従って北陸へ出兵し、同年5月、有名な倶利伽羅(くりから)峠の戦い、 火牛(かぎゅう)の奇襲作戦で敗れ、木曽義仲(きそよしなか)の軍に捕らわれますが、敵ながら殺すのは惜しいと義仲も思ったらしく、倉光三郎成澄に預けられます。
『平家物語』では、巻八に「妹尾最期(さいご)」という一節を設けて兼康の最期を描き、木曾義仲をして「あっぱれ剛の者かな。是をこそ一人當千(とうぜん)の兵(つわもの)ともいふべけれ」と言わしめたのであった。




 「倶利伽羅落」

  
さて、源平は向かい合って陣を構える、両陣の間は約300mばかり。

・・・・

しだいに暗くなってきたので、源氏の北と南の両方からまわった、搦手(からめて)の軍勢一万余騎は、倶利伽羅の不動明堂のあたりで合流しどっと鬨の声をあげた。平家軍がうしろを振り返ると白旗が雲のようにさしあげられている。・・・・・・
木曽義仲の一万余騎は大手から、砺波山の一万余騎、日の宮林に控える今井四朗が六千余騎で全軍勢を合わせると約四万騎の喊声(かんせい)が、山も川もただ一度に崩れるように轟いた。

・・・・・・・・

平家の崩れかかった大軍は、総崩れとなって、倶利伽羅が谷へと我先にと馬を乗りおろしていった。こうして、深い谷は、七万予騎の平家の軍勢で埋めてしまった。
平家方では、主力の大将たちがこの谷で死に、備中国住人瀬尾太郎兼康という評判の高い太刀の勇士も、そこで加賀国住人倉光次郎成澄(なりずみ)によって捕虜にされた。平家の七万余騎の軍勢のうち逃げられたのは、わずか二千余騎であった。




 「瀬尾最後」

 
平家の侍、備中国住人瀬尾太郎兼康は、北国の戦いで生け捕りにされた。そして、生捕った加賀国住人倉光の弟:三郎に預けられた。兼康は、評判の高い剛毅な者であり、大力であったので、
木曽殿 「ああ、この男を失っては惜しいことだ」と言って、切らなかった。

・・・・・

兼康は、つねに相手に従いながら、なんとかして敵の隙をうかがい、打ち取って、もう一度、前の主人(平清盛)にお会いしたいと思っていた。

・・・・・・

ある時、兼康は、三郎に
「今後、合戦がございましたら、まっさきに戦って木曽殿に命をさしあげましょう。兼康が領有していた備中の妹尾(せのお)は、馬を飼う牧草の豊かなところです。」
三郎は、このことを木曽殿に申したら、木曽殿は「それでは、瀬尾を案内者として、まず下って、馬草などを用意させよ」
三郎は、30騎ばかりの兵を引き連れ兼康を先頭にたてて、備中へ下っていった。・・・・・
兼康の嫡男:小太郎宗康は、父が木曽殿に許されて下ってくると聞いて、郎党五十騎ばかりで迎えに行き、播磨の国府(兵庫県姫路市)で出会い、備前国三石(岡山県備前市三石)の宿で一緒に泊まった。そして、その夜、倉光三郎と家来に酒を振る舞い、酔いつぶして、一人一人みな刺し殺してしまった。

・・・・・

木曽殿が攻めてくるので、備前、備中、備後の年老いた兵2千余人を集め、瀬尾太郎を先頭に、備前国の福隆寺(岡山市北部)に櫓を建て、木曽殿が攻めてくるのを待ち受けた。・・・・・

今井三郎は、3千余騎の兵で兼康の陣取る櫓を攻めた。今井軍は、郡をなして攻め入り、一日中戦い続けた。夜になって、兼康の守る砦は破られ、退却して備中国板倉川(岡山市高松)のほとりに防御陣地を築いたがそこも破られ、我先にと落ちて行った。

・・・・・・・・

兼康は主従3騎になるまで討たれてしまい、板倉川に沿って落ちて行くと、倉光次郎が追いかけてきて取っ組み合いになって、川に落ちた。倉光は泳げなかったので兼康は、三度刀を刺して、倉光の首をとった。そして、倉光の馬で落ちて行ったが息子:小太郎は、徒歩で落ちて行ったが、あまりに太っていたので、1町(約100M)も走ることはできなかった。父:兼康は息子をうちすて十町(約1000M)も逃げ延びた。

家来は「たとえ逃げ延びても、後に、息子を見捨てて逃げたと言われるので、どうかお引き返えしください」
兼康は、「それでは」と引き返し、息子に「同じところで討死しよう」と言った。

そこへ、今井四郎が五十騎ばかり引き連れ追いかけてきた。兼康は、矢で次々と射落として、その後は、刀を抜いて、まず小太郎の首をはね、敵の中に割って入って多くの敵を打ち取ったがついに討死してしまった。その首は、備中国鷺が森(倉敷市の北部かと)に晒された。
木曽殿 「あっぱれ、剛の者よ。これこそ一人当千(いちにんとうせん)の兵というべきだ。惜しいことに、この者どもを助けられなかった」と言われた。


(参考資料:杉本圭三郎訳 平家物語巻第七)


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

※瀬尾太郎兼康は、妹尾とも言われています。、平家物語は、勝った源氏側から見た様子を描いていますので、瀬尾太郎兼康は、相手をだましたり、息子を置き去りにして自分だけ逃げたりと、あまりいいようには書かれていません。しかし、息子置き去りは、戦いの最中で、当然、息子も馬に乗って逃走している思っていたが、そうではなかったので、死を覚悟して引き返し、息子ともども討死したと思われます。また、十二ケ郷用水を築いたと伝えられており、農業の恩人と慕われています。平家物語や演劇での悪役とは違った人物ではなかったかと思われます。

 

妹尾兼康公墓(鯉山(りざん)小学校敷地内)

   



 

左の塔の後ろには、平成26年吉日と記されています。

 

お墓の後ろが鯉山小学校

 

 



妹尾太郎兼康公(せのおたろうかねやす 1126~1183)は、このあたり板倉郷の豪族でした。高梁川(たかはし)の湛井(たたい)から水を引き、今も使われている十二郷用水路を改修した人です。

平家物語にも平清盛の信頼を受け平家の侍大将として1183(寿永2年10月12日)年、木曽義仲の軍勢と板倉城(岡山市高松)で戦い、討死したとあり、その後、家臣の陶山道勝(すやまみちかつ)は屍を城跡に埋めて供養のために寺を建てました。それが、道勝寺で今の鯉山(りざん)小学校です。

 

 妹尾兼康公墓の地図は こちらから 

(鯉山小学校:岡山県岡山市北区吉備津1444)

 

 

2021.10.02

10月の夕陽

夕陽

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