義経 打倒平家40 奈良炎上
以仁王の乱に同調した興福寺のある南都(奈良)の処罰も検討されたが、正月の遊戯に使う木製の玉(毬丁(ぎっちょう)の玉)を「清盛の頭」と名付け、「打て!」「踏め!」とはやしたてた。奈良の暴動を沈めようと、
備中国の瀬尾太郎兼康を大和の検非違使に任じました。
兼康は500騎の軍勢で出発しました。奈良では、大衆が兼康の軍勢のうち60人余りを捕らえ、首を斬って、猿沢の池のほとりに並べたのを伝え聞いて激怒した清盛は、年の押し迫るなか、南都追討の命令を下しました。
大将軍は、清盛の息子重衡(しげひら)、副将軍は清盛の弟教盛(のりもり)の嫡男通盛(みちもり)。合わせて4万騎余りが、7千あまりの僧兵、一般民衆が立てこもる奈良坂、般若寺の2ヶ所に押し寄せた。夜になり、明かりをとるため民家に火をつけさせたら、強風にあおられ一面火の海となり大仏殿にいた千人余りの人に、猛火が襲い地獄のような様相でした。興福寺、東大寺の伽藍は焼失し、焼死した人は、3500人、戦死した僧兵は1000人にのぼった。
清盛は、うっぷんが晴れて大喜びだったが、仏法の衰微によって、世の中が衰微することは疑いなかった。
(参考資料:青春出版社 日下 力氏監修 平清盛と平家物語
講談社学術文庫 杉本圭三郎氏全訳注 平家物語(5))
般若寺
平重衡供養塔
般若寺はコスモス寺とも言われています
※備中国の瀬尾太郎兼康については次の記事で紹介します。