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2021年9月

2021.09.30

義経 打倒平家40 奈良炎上

以仁王の乱に同調した興福寺のある南都(奈良)の処罰も検討されたが、正月の遊戯に使う木製の玉(毬丁(ぎっちょう)の玉)を「清盛の頭」と名付け、「打て!」「踏め!」とはやしたてた。奈良の暴動を沈めようと

備中国の瀬尾太郎兼康を大和の検非違使に任じました。

康は500騎の軍勢で出発しました。奈良では、大衆が兼康の軍勢のうち60人余りを捕らえ、首を斬って、猿沢の池のほとりに並べたのを伝え聞いて激怒した清盛は、年の押し迫るなか、南都追討の命令を下しました。


大将軍は、清盛の息子重衡(しげひら)、副将軍は清盛の弟教盛(のりもり)の嫡男通盛(みちもり)。合わせて4万騎余りが、7千あまりの僧兵、一般民衆が立てこもる奈良坂、般若寺の2ヶ所に押し寄せた。夜になり、明かりをとるため民家に火をつけさせたら、強風にあおられ一面火の海となり大仏殿にいた千人余りの人に、猛火が襲い地獄のような様相でした。興福寺、東大寺の伽藍は焼失し、焼死した人は、3500人、戦死した僧兵は1000人にのぼった。
清盛は、うっぷんが晴れて大喜びだったが、仏法の衰微によって、世の中が衰微することは疑いなかった。
(参考資料:青春出版社 日下 力氏監修 平清盛と平家物語
   講談社学術文庫 杉本圭三郎氏全訳注 平家物語(5))



般若寺


  


 

 


平重衡供養塔




 

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般若寺はコスモス寺とも言われています



※備中国の瀬尾太郎兼康については次の記事で紹介します。

 

2021.09.29

ナナ・ファーム須磨 

海が見えるレストラン「魚魚」

産地直送の鮮魚と新鮮野菜をふんだんに盛り込んだ創作料理の数々須磨の海が一望できるテラス席が大人気!

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魚、肉料理が満載です

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採れたての魚、野菜が並んでいます
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レストランから海が見えます

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兵庫県神戸市須磨区外浜町4-1-1(地図

 

 

2021.09.27

義経 打倒平家39 竹生島

竹生島(ちくぶしま)は琵琶湖の北端近くに浮かぶ島で、周囲2キロメートル、面積0.14平方キロメートルほどの小島で、島の周囲は南東部にある船着き場を除いてほとんどが急な断崖になっている。島には宝厳寺と都久夫須麻神社の他にはみやげ物店が数軒あるだけで、信仰の島です。
現在は宝厳寺と都久夫須麻神社という「寺」と「神社」に分かれていますが、このように区別されるようになったのは、明治時代初期の神仏分離令以降のことであり、竹生島では平安時代から近世まで神仏習合の信仰が行われていました。


平家物語7巻「竹生島詣」 


平家が北陸の木曽義仲を倒すために北国へ下向しました。その途中で、平経正(つねまさ)が竹生島に行ったことが記されています。

 ある朝、平経正が、琵琶湖のほとりに出て、遥か沖に見える島を見渡しました。経正は、供をしていた藤兵衛尉有教を呼び、「あれはなんという島だ」と問いました。有教の答えは「あれこそ、うわさに聞こえる竹生島です」。経正は、「そうか、そんなこともあるのか。それなら、いざ参ろう」と、有教、安衛門尉・守教以下の侍6人を連れ、小舟に乗り、竹生島へ行きました。

 時候は、卯月(4月)の18日、新緑の梢はまだ春の名残をとどめ、深い谷のうぐいすの声はなくなろうとしていますが、初音がういういしいホトトギスが今を盛りに声を響かせ、藤の花が松の木にからみつき、たいへん趣のある様子でした。

 経正は急ぎ船から降りて、岸に上がりました。竹生島の景色に触れ、心をつまらせ、声を失いました。

※1184年(寿永3年)のことです
経正は、平敦盛の兄、平清盛の甥にあたる。 琵琶の名手で、平経正の塚とされる琵琶塚( 兵庫県神戸市兵庫区)があります。

竹生島(ちくぶしま)長浜市早崎町1664-1

 

弁財天

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厳島神社


 

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長浜市早崎町1664-1

 









琵琶塚(兵庫県神戸市)
琵琶塚は楽器の琵琶の形をしており、琵琶の達人であった平経正の塚として伝えられてきています。



2021.09.22

義経 打倒平家38 今井兼平の墓

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(いまいかねひらのはか


今井四郎兼平は木曾義仲とは乳兄弟でもあり、義仲四天王の一人です。
今井四郎兼平は、源平争乱の最中に木曽義仲に従って上洛して一時は都を押さえた義仲でしたが、1184(元暦元年)年に頼朝軍に追いつめられ、粟津合戦で義仲とともに討ち死にする。


兼平の最後は、義仲が討ち取られたと知った直後、「東国の方々、これが日本一の強者の自害する手本だ」と言って、太刀の先を口の中に含み、馬上から飛び降り、太刀に貫かれ自害した。(享年:32歳)


今井四郎兼平の墓は、1661(寛文元)年に、膳所藩主本多俊次によって建立された。現在、敷地内には江戸から平成にかけて兼平の子孫によって建立された燈籠や記念碑等が残されており、祖先顕彰の思いを偲ぶことができる。

所在地:滋賀県大津市晴嵐2-4-16   (地図)

 

今井兼平の墓

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兼平が豪勇であったことや墓を建立した膳所藩主本多俊次の名前などが書かれています。

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粟津合戦の顕彰碑
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2021.09.18

義経 打倒平家37 根上松

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1183(寿永2)年、根が浮き上がった松があったこの場所で、平家軍に追われた加賀国の武士団が戦って壮絶に死んでいった。
地図

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根上松古戦場(ねあがりまつ)

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根上松

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義経が北國落ちした時の安宅の関は近くです。

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 1.平陣屋  平家軍が陣を置いたと場所と言われている
 2.尼御前岬 義経一行の中にいた尼が足手まといにならないようにと身を投げた岬
 3.鏡の池  実盛が白髪を染めるために使った鏡を投げ入れた池
 4.実盛塚  斉藤実盛の墓
 5.首洗池・篠原古戦場  実盛の首を洗った池と古戦場
26.正覚寺  仏御前が去るとき清盛が与えた阿弥陀如来像が安置されている
27.菅生石神社 義経が奥州行きのときに参拝した
 6.安宅関・住吉神社 勧進帳の義経・弁慶・富樫の像と関所跡があります。
 7.多太神社  実盛の兜と芭蕉の句碑があります。
 8.根上の松  根が地上に浮き上がった松があり、古戦場の跡でもあります。
 9.弁慶謝罪の地 主人義経を打った弁慶が謝罪した道林寺跡
10.仏御前の里 清盛の愛人・仏御前の像・屋敷跡・墓があります。
11.泰産神社  仏御前が人々の安産を願って寄進した神社
12.木滑神社 仏御前が清盛の子を出産するときに寄りかかった石があります。

 

2021.09.14

義経 打倒平家36 平家の老将

北陸の平家の老将

 

斉藤別当実盛 (さねもり)

1183(寿永2)年、京に上る木曽義仲に攻められ倶利伽羅峠で破れた平家軍は、篠原の地で態勢を立て直そうとしたが、平維盛(これもり)などは後退してしまった。

その中に兜の緒をしめた名を名乗らない武者が一人いた。
手塚太郎は、その武者を討ち取り、義仲に首を差し出すと、白髪を染めた実盛であった。実盛は、若者に老人とあなどられないために髪を染め、又、以前に2歳の義仲を助けたことがあってそれを隠すために名を名乗らなかった。
 

この兜にまつわる実盛と義仲の話は『平家物語』巻第七に「実盛」として語られています。


73歳の老兵は最後の戦いでその名を残した。

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斉藤別当実盛

義仲が実盛の供養のために、多太神社に兜を奉納しました。

 


多太神社〔地図(たたじんじゃ)

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実盛の兜
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むざんやな 甲のしたの きりぎりす
(芭蕉)




首実験をする木曽義仲と樋口次郎
首洗い池〔地図

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実盛の首を洗った池  
このあたりが義仲軍と実盛が戦った場所
(合成写真)

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鏡の池(実盛が出陣する際に髪を染める時に使った鏡を沈めたと言われている) 地図

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実盛の亡骸を葬った実盛塚(合成写真) 〔地図

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 1.平陣屋  平家軍が陣を置いたと場所と言われている
 2.尼御前岬 義経一行の中にいた尼が足手まといにならないようにと身を投げた岬
 3.鏡の池  実盛が白髪を染めるために使った鏡を投げ入れた池
 4.実盛塚  斉藤実盛の墓
 5.首洗池・篠原古戦場  実盛の首を洗った池と古戦場

26.正覚寺  仏御前が去るとき清盛が与えた阿弥陀如来像が安置されている
27.菅生石神社 義経が奥州行きのときに参拝した
 6.安宅関・住吉神社 勧進帳の義経・弁慶・富樫の像と関所跡があります。
 7.多太神社  実盛の兜と芭蕉の句碑があります。
 8.根上の松  根が地上に浮き上がった松があり、古戦場の跡でもあります。
 9.弁慶謝罪の地 主人義経を打った弁慶が謝罪した道林寺跡
10.仏御前の里 清盛の愛人・仏御前の像・屋敷跡・墓があります。
11.泰産神社  仏御前が人々の安産を願って寄進した神社
12.木滑神社 仏御前が清盛の子を出産するときに寄りかかった石があります。

 

 

 

 

2021.09.12

90歳 なにがめでたい

90歳に書かれた佐藤愛子さんのエッセイ集です。

さすが、直木賞作家が書くと老人の生活もこんな風に面白くなるのかと。90歳にはまだ年数がありますが納得することばかりです。

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当たりさわりのない人生なんて例え平穏であったとしてもぬるま湯の中で飲む気の抜けたサイダーみたいなものです。

 

そして98歳になられた今の心境をつづった本を出されました。
(まだ読んでません)

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最後に掲載されている「さようなら、みなさん」は

 

70年を超える作家人生に幕を下ろすことを宣言した一編です。

 

2021.09.10

義経 打倒平家35 仏御前

仏御前

 

仏御前は、1160年(平治2年)加賀国原村(現:小松市原町)に生まれる。その後京都で白拍子として名を挙げ、当時の権力者であった平清盛を訪ねる。その当時は清盛の寵愛を集めていた白拍子の妓王の誘いで、清盛の前で即興で今様を詠み、それを歌って舞を見せ一気に寵愛を集めた。
(この物語は平家物語(第一巻 6「祗王」)に登場する。)

仏御前17歳の1177年(安元3年)に清盛の元を離れ出家し、嵯峨野にある往生院(祇王寺)に入寺する。
往生院には仏御前の登場により清盛から離れた妓王とその母・妹がおり、同じく仏門に励んだ。その後、1178年(治承2年)に故郷の加賀国原村に帰郷し、仏の道に名入り、1180年(治承4年)に没した。
墓所は小松市原町にある。

JR小松駅から白山に向かって南へ、車で20分ほど行くと仏御前の里(小松市原町)があります。地図



仏御前安置所

仏御前像は、村の家庭で守られてきて、昭和のはじめから現在の家に安置されています。
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仏御前のお墓

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清盛の愛人・仏御前は世をはかなみ仏門に入りました。写真は、仏御前の屋敷跡で、石祠と2基の墓石があります。

 

泰産神社
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仏御前が1176年(安元二年)の秋、京都から故郷の原村(現在は町)に帰って静に暮らしていた頃、安産を願って本社を創立したと伝えられています。

ここからまだ南(白山の方角)に行くと吉野谷村に木滑神社(きなめり)があります。ここは、仏御前が京から故郷・原村に帰る途中、清盛の子を出産する時に寄りかかった石が残っており、安産のお守りとして信仰されています。

 

正覚寺
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仏御前が、清盛の元を去るとき、「靴を履いた珍しい阿弥陀像」を与えたと言われています。その「履行阿弥陀如来像(くつばき)」と仏御前像が安置されています。

 

 

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 1.平陣屋  平家軍が陣を置いたと場所と言われている
 2.尼御前岬 義経一行の中にいた尼が足手まといにならないようにと身を投げた岬
 3.鏡の池  実盛が白髪を染めるために使った鏡を投げ入れた池
 4.実盛塚  斉藤実盛の墓
 5.首洗池・篠原古戦場  実盛の首を洗った池と古戦場
26.正覚寺  仏御前が去るとき清盛が与えた阿弥陀如来像が安置されている
27.菅生石神社 義経が奥州行きのときに参拝した
 6.安宅関・住吉神社 勧進帳の義経・弁慶・富樫の像と関所跡があります。
 7.多太神社  実盛の兜と芭蕉の句碑があります。
 8.根上の松  根が地上に浮き上がった松があり、古戦場の跡でもあります。
 9.弁慶謝罪の地 主人義経を打った弁慶が謝罪した道林寺跡
10.仏御前の里 清盛の愛人・仏御前の像・屋敷跡・墓があります。
11.泰産神社  仏御前が人々の安産を願って寄進した神社
12.木滑神社 仏御前が清盛の子を出産するときに寄りかかった石があります。

 

 

2021.09.08

昼食

 

ざるそばとミニうな丼

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街は非常事態関係ないみたいです
明石駅前

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2021.09.07

義経 打倒平家34 妓王寺

 

妓王寺ぎおうじ)

滋賀県野洲市中北90 (地図)

 


平清盛の寵愛を受けた白拍子:妓王は、水不足に苦しむ故郷のために清盛に頼んで、野洲川から水路を掘って水不足を解消した。それに感謝した村人が、妓女姉妹と母親の菩提を弔うために建てたお寺です。
のちに妓王は若い白拍子にその座を奪われ、京都嵯峨野に隠れ住んだと言われています。


清盛から追い出された妓王が襖に書き付けた一首
「萌え出づるも 枯るるも同じ野辺の草 

     いづれか秋に あはではつべき」

 

 


妓王寺
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妓王寺由来
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妓王 妓女 母親
 

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妓王 妓女の塔

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妓王寺と屋敷への道標

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妓王屋敷跡(妓王寺の近くにあります)

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築島寺(兵庫県神戸市兵庫区)に妓王、妓女の供養塔があります。


妓王姉妹を追い出すことになった、仏御前の史跡(石川県原村)

 

 

2021.09.03

義経 打倒平家33 巴と山吹

 

巴と山吹

 

義仲寺の敷地内には、義仲の愛人の巴と山吹の塚があります。
「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女(美女。召し使いの女)を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。」

 

所在地:滋賀県大津市春日町1(大津駅西側)( 地図 )

 

 

巴御前供養塚と巴地蔵堂
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巴  塚


義仲の側室で、武勇に優れた美女。

かくのごとき をみなのありと
かってまた おもひしことは
われになかりき

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としつきは 過ぎにしとおもふ
近江ぬの みづうみのうへを
わたりゆく月

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山吹御前の供養塚
(義仲の側女 義仲寺)

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(やまぶきじぞう)

山吹御前は、平家物語の「木曽最期」にほんの少し登場する女性です。木曽義仲の妻と言われている巴御前が、美貌で武勇にも優れていたと言われていますが、山吹御前は、木曽義仲が木曽から巴御前と共に都に連れてきた女性だとされている以外は分かっていません。義仲が都落ちしたとき病気であったため京に残されました。後を追ってこの地まで来たが会うこともできず敵方に殺されたと言われています。

所在地:滋賀県大津市春日町1(大津駅西側) ( 地図 )
  

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木曽どのを したい山吹 ちりにけり

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