義経 打倒平家25 大輪田の泊り2
6 清盛塚・琵琶塚 《地図》
清盛の遺骨を埋葬した清盛の墓と信じられていた十三重の塔でしたが1286年に建てられた供養塔である事が判明した。
もとは前方後円墳でしたが、平家物語の琵琶の名手「平経正(敦盛の兄)」と結びつけ琵琶塚と呼ばれるようになりました。
琵琶塚の文字は明治35年に彫られ、清盛像は昭和43年に建てられました。
1 久遠寺 《地図》
平清盛の経ケ島築造の頃、このあたりは浜辺であったと言われ 俗称「浜の寺」と言われていた。
福海寺 (地図)
清盛が好んだ時雨の松は、青葉から玉露の滴を垂らし、霊験あらたかであったといわれ、また、清盛の隆盛を導いたと伝えられています。
今は、松はなく、碑だけが残されています。
(兵庫区民まちづくり会議発行パンフレットより)
14 阿弥陀寺 《地図》
この魚御堂は清盛が魚の供養のため設けたと言う説や重盛の仮屋敷跡との言い伝えもあります。
写真の礎石は通称「楠公供養石」と言われ、湊川合戦で敗れた楠木正成の首を置いたと言われている。
3 和田神社 【地図】
元は、現在地から西南に約800mの海岸にあり「蛭子(えびす)の森」と呼ばれていました。
平清盛が大輪田泊りの修築の際、事業の無事と将来の繁栄を祈願し安芸の宮島よ市柿嶋姫大神を勧請しました。その後、南浜総氏神と広く人々に親しまれ、隣松院と呼ばれていますぅ。
社務所には、西国大名や勝海舟が訪れました。
4 薬仙寺 《地図》
福原遷都の際、後白河法皇を幽閉した跡で、牢の御所とも呼ばれています。
【平家物語 都遷】
清盛は、後白川法皇を福原に移して、四面を板で囲って入り口を一つ開けた中に、三間四方の板屋を造りそこへ押し込めた。これを牢の御所と言った。
平家の悪行もついに極にたっした。
「安元年間(1175~1177)よりこのかた、多くの公卿、殿上人を流刑や殺害をし・・・・・・・・いま、積み重ねた悪行の最後にしたのが遷都である」
7 真光寺 《地図》
福原遷都の際、都の周囲に祀られた七弁天の一つである真野弁天はこの大日堂にあったと言われています。
平清盛公が当寺に弁財天を勧請した時に、僧が井戸の水でお茶をたて献上した伝えられています。
9 金光寺 《地図》
経ケ島(きょうがしま)築造のとき、清盛の枕元に童子が現れ「兵庫の海中に霊仏があるので探し出すよう」夢告しました。大輪田も海に網を下ろしたところ、海中から金色の黄金薬師尊が出現したことから、金光寺と名ずけられました。
11 平経俊塚 《地図》
上写真:鎮守稲荷神社 下写真:平経俊塚(つねとし)
平敦盛の兄。湊川の合戦で鵯越の守備についていたが戦利あらずと西出の浜へ落ち延びてきたところを源氏の名和太郎と組み打ちとなり当地で落命した。御歳18
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