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2021年8月

2021.08.31

義経 打倒平家32 義仲寺

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義仲寺木曽義仲の墓(滋賀県大津市)
(ぎちゅうじ)

木曽義仲は、平家討伐のために兵をあげ、いったんは平定しましたが、後に、源頼朝に攻められ、粟津の地で敗れました。巴御前がこの地に草庵を造り、供養したと言われています。
(近江守護佐々木六角氏が室町時代末期に建立した説もあります)

敷地内には、義仲の愛人の巴と山吹の塚もあります。
「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女(美女。召し使いの女)を具せられたり。山吹はいたはりあって、都にとどまりぬ。中にも巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。」


又、江戸時代になって、松尾芭蕉がこの地をしばしば訪れ、大阪で死亡した時に「この地に墓を建ててくれ」との遺言で芭蕉の墓があります。 芭蕉の句「旅に病みて夢は荒野をかけめぐる」など多くの俳人の句碑も建っています。

所在地:滋賀県大津市馬場1-5-12 (地図



義仲寺

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義仲公の墓
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朝日将軍木曽義仲公のご墓所があります。

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木曽八幡社
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芭蕉の墓と句 
1694年(元禄7)10月、芭蕉は大阪で亡くなりました。(享年51歳)そのときに「木曽塚に送るべし」と遺言して、墓が建てられたその後、芭蕉を慕う俳人が墓をつくったり句碑を建てたりした。
このあたりは、旧東海道に沿っており、古くは粟津ヶ原といい、琶湖に面した景勝の地であった。
(義仲寺パンフレットより)


芭蕉の墓

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芭蕉

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古池や 蛙飛び込む 水の音 

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旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

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行春を おうみの人と おしみける

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2021.08.28

義経 打倒平家31 室津文化

室津と文化

室津(兵庫県たつの市は、今では小さな港町ですが、以前は500人前後の朝鮮通信使や西国の大名行列もここを通って京や江戸へ旅していました。

 

 

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朝鮮使節団

王の親書を日本の将軍に持参した使節団です。一行は500人前後の団体で室津港に寄港していました。


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食事も豪華でした。その一部です。 

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室津は
、文学作品にも多く登場します。
井原西鶴(1642-1693年)は、「好色一代男」で、 「遊女のはじまりは、江州の朝妻、播州の室津より事起こりて、いま国々になりぬ」 と遊女の始まりを書いて、 室津は遊女発祥の地として世間に広まった。
また「好色五人女」では、姫路(兵庫県)を舞台とする「お夏と清十郎の悲恋物語」の清十郎の生誕地として登場します。

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 竹久夢二(1884-1934年)は、地元旅館の女将をモデルに「室の津懐古」で書きました。


谷崎潤一郎(1886-1965年)は、室津の遊女伝説をベースにした『乱菊物語』でとりあげました。

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司馬遼太郎(街道をゆく1923-1996年)


平岩弓枝(1932年-)などが作品の舞台にしています。

 

室津地図(兵庫県たつの市室津)

2021.08.26

義経 打倒平家30 室津街並み

 

室津 歴史と昔の風情を残す街 

(兵庫県たつの市室津)




●神武天皇の時代に、この地に港を造ったと言われています。

※神武天皇は、初代天皇で日本書紀、古事記に出てきます。天皇即位は、紀元前660(神武天皇元年)年

●播磨風土記に「この泊り、風を防ぐこと室のごとし、ゆえに名となす」と室津の名の由来を記述しています。713(和銅6)年奈良時代

●万葉集に唐荷島や鳴島が記載されています。726(神亀3)年


室津港

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司馬遼太郎も訪問して感想を残しています。

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室津絵図
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国道250号線に沿ってある千年茶屋の前から、スロープを降りて街に入ります。街の中には車を置く場所がありませんので、スロープで下りた所が駐車場になっています。
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メインストリートです。戦後見たような風景で、車は一方通行で通れます。昼頃の写真ですが、漁師町なので休んでおられるのか人影がありません。
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海と山に挟まれた狭い地域に街ができたので、家は階段状に建っていて、路地は人が通るのがやっとです。
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明神通り

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大阪城築造の際に運ばれた石が残っています。
 
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江戸時代には、参勤交代で西国大名の乗船地点として大いに賑わいました。大名達が宿泊する本陣は6軒もありました。 

備前屋跡 

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紀伊国屋      

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本陣薩摩屋跡
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肥後屋跡              

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 肥後屋模型

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貝堀の井戸
 
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兵庫県たつの市御津町室津 (地図 )

 

 

 

2021.08.23

義経 打倒平家29 室津と清盛

 

室津兵庫県たつの市御津町室津

 

1180(治承4)年、平清盛と高倉上皇が厳島神社に参拝した時、室津に立ち寄りました。

平家物語巻第四に、「厳島御幸」として高倉上皇が参拝後の帰途、播磨の国山田の浦(兵庫県神戸市垂水区舞子あたり)から福原(兵庫県神戸市兵庫区)に寄られたと書かれています。

平家が源氏に勝った「室山合戦」(1183年)の戦場も、室津でした。


播磨風土記に「この泊り、風を防ぐこ室のごとし、ゆえに名となす」と室津の名の由来を記述しています。 昔の風情を残した港町です。

●摂津五泊に河尻(大阪)、大輪田(神戸市)、魚住(明石市)、韓泊(姫路市)、室津(たつの市)として制定される。

 

 

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平清盛

1180年の6月に福原に遷都、そして12月に都を再び京都に戻しました。清盛62歳の時のことです。1年後に清盛は、熱病により亡くなりました。享年63歳

 

日招き絵
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賀茂神社
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木曽義仲の愛人友君
室津で有名な遊女は、友君で、木曾義仲の愛妾である山吹御前だといわれています。義仲亡き後、室津に流れ着き遊女となっった。たぶん、弱々しく肌の真っ白な美人であったのでしょう。

※木曽義仲は1183年に、平家軍10万を倶利伽羅峠で破り、京に入り朝日将軍とよばれ京の治安にあたるも義経に滅ぼされる。



友君の墓が浄運寺にあります。

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見性寺
室津の遊女:室君が建立した寺。
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寺宝の毘沙門天立像は、平安時代末期の作で国指定重要文化財。
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遊女行列
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室津賀茂神社地図

 

 

 

2021.08.20

義経 打倒平家28 鞆の浦

鞆の浦は、清盛が高倉上皇と厳島に参拝に行くときに風待ちのために寄港したところで、そこに、平家に関係のある史跡がありました。

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小松寺
平重盛(清盛の嫡男)が この地に松を植え、自作の護身用の阿弥陀佛を安置したのがこの寺の由来です。

 

医王寺から見た鞆の浦


 

常夜燈
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常夜灯の向こうに医王寺があります。

 

商家
江戸時代に繁栄した鞆の商家です。
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街並み
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太田家住宅
江戸初期、保命酒で財をなし、幕末には、尊皇攘夷の三条実美(さねとみ)らの七郷落ちのときここに立ち寄った。
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太田家前の道路は昔のままの雰囲気が残っています
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歌に詠まれた「むろの木」
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天平二年(730)、大宰帥(大宰府長官)として九州に赴任していた大伴旅人は、「京に帰る途中で鞆に立ち寄り、亡き妻とともに眺めた景色に再び接した歌」を万葉集に残しています。

 

他にも歴史上有名な出来事が起こっています。歩てみて面白い所です。

●織田信長に追放された足利義昭は、毛利氏や、現在の広島県福山市沼隈半島一帯を治めていた渡辺氏などの支援を受け 、1576年鞆幕府を設立しました。

●江戸初期、福島正則によって「鞆城」の築城が始まります。

●朝鮮通信使の宿泊地でした。

●1867年(慶応3年)、坂本龍馬率いる海援隊の「いろは丸」と紀州藩船「明光丸」が瀬戸内海の六島沖で衝突し、龍馬と紀州藩との談判が、鞆の浦でおこなわれました。

●宮崎駿監督作品『崖の上のポニョ』をはじめ、様々な映画、小説、テレビドラマの舞台となっています。


鞆の浦詳細地図 こちら

 

2021.08.17

義経 打倒平家27 厳島神社

厳島神社

1168年、平清盛が社殿を造営し、平家一門の氏神として栄えた。
平家滅亡後は、源氏一門、毛利元就、豊臣秀吉らの崇拝を集めた。
1996年に世界文化遺産に認定される。現在の建物は1571年、毛利元就によって造営されたものです。

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宮島口から船に乗って宮島に渡ると船が大鳥居の前を通過してくれます。海上から見るこの大鳥居の風景が厳島神社のシンボルのようになっています。(総高約16m)
潮の干満を利用して設計された厳島神社、それと一体にとなった前面の海、背後にそびえる弥山(みせん)の原始林一帯が世界遺産に登録されています。

 

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大鳥居の前の平舞台での舞楽。
平舞台とは本社正面前に広く張り出された露台

 

清盛神社
1952(昭和27)年、清盛公の没後770年にあたり、1954(昭和29)年に清盛公を祀るために創建されました。

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五重塔

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1407年(応永14年)建立、高さ27,6mあります。赤が栄えて見事な塔です。

五重塔と千畳閣

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五重塔の横に千畳閣があります。
豊臣秀吉が1587年に造らせました。畳を敷くと857畳になることから千畳閣と呼ばれ多くの絵馬が奉納されています。
平家琵琶や篠笛の演奏会なども行われるようです。



 

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1174年(治承4年)、後白河法皇が参拝されたときに植えられた松と言われています。本殿の裏側にあります。

 

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清盛暗殺計画に加わった平康頼(やすより)は、鬼界島(きかいがしま・硫黄島)に流されたが、母恋しさに千本の卒塔婆に二首の和歌を書いて海に流した。そのうちの1本が池の中の石に流れついたと言われている。
卒塔婆石は厳島神社の境内にあります。

 

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島に渡ると出迎えてくれるのが鹿です。鹿は神の使いとされ島内に300頭ほどいるらしいです。

注意!!!余りにも馴れ馴れしいので安心していると持っているものを食べられてしまいます。1万円札を持っていた人が一瞬の内に食べられた話が伝わっています。窃盗被害届けを出しても警察は受け付けてくれません。


2021.08.14

義経 打倒平家26 音戸の瀬戸

音戸の瀬戸(広島県呉市)

平安時代末期に権勢をふるった平清盛が日宋貿易の航路として1167(保安2)年に開削し工事中に、西に太陽が沈もうとした夕日を金の扇で招き返し、一日で切り開いたという伝説があります。

 

瀬戸内マリ―ビュー
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日招像 ( 地図
沈むとした夕陽を金の扇で招き返して工事を一日で終えたと言う伝説があります。
音頭の瀬戸開削800周年を記念して、1967(昭和42)年に建てられました。

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平清盛は、このように夕陽が沈んでいた時にその夕陽を招き返しました。

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清塚盛
清盛は、人柱の代わりに一字一石の経石を海底に沈めてこの工事を完成させました。その功績を称えて、1184(寿永3)年に建立されました。
上に通る橋は、音戸大橋  向うに見える橋は新音戸大橋
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二重の塔
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音戸渡船(おんどとせん)
1961(昭和36)年に音頭大橋ができましたが、江戸時代から続いた音頭渡船は、使いやすいために残され、現在も運行しています。

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幅120mと日本一短い定期航路



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音戸大橋
(右手に音戸渡船があります)
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新音戸大橋
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吉川英治文学碑
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吉川氏が「新平家物語」の史跡取材のため音戸の瀬戸を訪れた時、対岸の清盛塚に向かって、「君よ、今昔の感 如何(いかが)」と言われたのを記念して碑が建立された。
右の石にその言葉が刻まれています。


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清盛の雪見の御所跡(兵庫県神戸市兵庫区)近くに日招像があります
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音戸瀬戸への地図は こちらから

2021.08.11

義経 打倒平家25 大輪田の泊り2

 

 

 清盛塚・琵琶塚  《地図》

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清盛の遺骨を埋葬した清盛の墓と信じられていた十三重の塔でしたが1286年に建てられた供養塔である事が判明した。
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もとは前方後円墳でしたが、平家物語の琵琶の名手「平経正(敦盛の兄)」と結びつけ琵琶塚と呼ばれるようになりました。
琵琶塚の文字は明治35年に彫られ、清盛像は昭和43年に建てられました。

 

 

 久遠寺 《地図》
平清盛の経ケ島築造の頃、このあたりは浜辺であったと言われ 俗称「浜の寺」と言われていた。

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福海寺 (地図
清盛が好んだ時雨の松は、青葉から玉露の滴を垂らし、霊験あらたかであったといわれ、また、清盛の隆盛を導いたと伝えられています。
今は、松はなく、碑だけが残されています。
(兵庫区民まちづくり会議発行パンフレットより)

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14 阿弥陀寺  《地図》

この魚御堂は清盛が魚の供養のため設けたと言う説や重盛の仮屋敷跡との言い伝えもあります。
写真の礎石は通称「楠公供養石」と言われ、湊川合戦で敗れた楠木正成の首を置いたと言われている。

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 和田神社  【地図
元は、現在地から西南に約800mの海岸にあり「蛭子(えびす)の森」と呼ばれていました。
平清盛が大輪田泊りの修築の際、事業の無事と将来の繁栄を祈願し安芸の宮島よ市柿嶋姫大神を勧請しました。その後、南浜総氏神と広く人々に親しまれ、隣松院と呼ばれていますぅ。
社務所には、西国大名や勝海舟が訪れました。
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 薬仙寺  《地図》
福原遷都の際、後白河法皇を幽閉した跡で、牢の御所とも呼ばれています。

【平家物語 都遷】
清盛は、後白川法皇を福原に移して、四面を板で囲って入り口を一つ開けた中に、三間四方の板屋を造りそこへ押し込めた。これを牢の御所と言った。
平家の悪行もついに極にたっした。
「安元年間(1175~1177)よりこのかた、多くの公卿、殿上人を流刑や殺害をし・・・・・・・・いま、積み重ねた悪行の最後にしたのが遷都である」


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 真光寺  《地図》

福原遷都の際、都の周囲に祀られた七弁天の一つである真野弁天はこの大日堂にあったと言われています。

平清盛公が当寺に弁財天を勧請した時に、僧が井戸の水でお茶をたて献上した伝えられています。

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 金光寺  《地図》

経ケ島(きょうがしま)築造のとき、清盛の枕元に童子が現れ「兵庫の海中に霊仏があるので探し出すよう」夢告しました。大輪田も海に網を下ろしたところ、海中から金色の黄金薬師尊が出現したことから、金光寺と名ずけられました。

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11 平経俊塚 《地図》

上写真:鎮守稲荷神社  下写真:平経俊塚(つねとし) 
平敦盛の兄。湊川の合戦で鵯越の守備についていたが戦利あらずと西出の浜へ落ち延びてきたところを源氏の名和太郎と組み打ちとなり当地で落命した。御歳18

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2021.08.08

義経 打倒平家24 大輪田の泊り1

大輪田泊りめぐり(おおわだ)



平氏の栄華を支えた最大の財政基盤は、日宋貿易による収益だった。
1153年(保元三年)、清盛は日宋貿易に本格的に乗り出し、まず重要拠点として門司を、ついで安芸国に音戸の瀬戸を開削し、大型船が瀬戸内海を航行できるようにし、一方大輪田泊りの修築を進める。
1167年(仁安二年)に太政大臣となった清盛は、宋船が大輪田泊りに直接入港できるようにし、自身も港近くの福原に別荘を構える。防波堤となる人口島の築島〔経島(きょうがしま)〕を私財を投じて工事を行っていたが、のちに国家事業として進めていく。
しかし、1181年(治承五年)閏二月四日、その完成を見ずに死亡。

下地図のの黄色の辺りが大輪田の泊のあった場所です。800年過ぎた今は、埋め立てられて経島は跡形も留めていません。


(野村貴郎著「源義経 鵯越の坂落し」 神鉄観光事業部すずらん編集室)

 

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  赤字:大輪田泊りコース《 地図 》
  (黄字:福原遷都コース)

  1 久遠寺
  2 築島寺(来迎寺)
  3 和田神社
  4 薬仙寺
  5 清盛橋
  6 清盛塚・琵琶塚
  7 真光寺
  8 能福寺
  9 金光寺
 10 七宮神社
 11 平経俊塚

 12 三宮神社
 14 阿弥陀寺
    清盛くん
    大輪田橋
    石椋
    和田神社
    福海寺 

 

清盛くん (地図)
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大輪田の泊跡から出土した石椋(いわくら)

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 清盛が日宋貿易の拠点とする為に、大輪田の泊(港)を修築しました。港湾施設の基礎になった巨大な石をイワクラと呼び1952年(S27)に見つかりました。



大輪田橋 (地図)
阿弥陀寺の西側に大輪田橋があります。この辺りが大輪田の泊り跡のようです。

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 清盛橋  《地図》

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和田の笠松 (地図)
真光寺に隣接した須佐野公園にあります。
「和田の笠松」入り江の浜にそびえ入港船や旅人の目印になっていた。
和歌にも歌われ古くから有名な松のあったところ、戦災で焼失しました。

鎌倉時代の歌人藤原為家の歌に
 「秋風の吹き来る峰の村雨に

      さして宿かる和田の笠松」

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2 築島寺(来迎寺) 《地図》
寺伝によれば、平清盛が経ケ島を築造する際、竣工直前に暴風雨によって破壊されたため、陰陽博士に占わせ人柱をたてることになり、身代わりとなったのが「松王丸」で、その犠牲によって無事に島が築造された。
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その供養塔が写真の左の塔、右の塚は清盛の愛人「妓王と妓女」の五輪塔。

 

10 七宮神社  《地図》  
清盛が経ケ島築造の工事を進めている時、暴風雨でなかなか進まないのを不振に思い調べたところ築造に必要な土砂を取っていた塩槌山に住む神が怒って暴風雨を起こすことがわかり、そこにあった神社を現在の七宮町に移築し祀ったところ、無事築造できたと言われています。

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 能福寺  《地図》

平清盛の墓

清盛の剃髪出家(ていはつ)や住職の円実法眼(えんじつほうがん)が亡くなった清盛の遺骨を持ち帰ったという言われています。境内には平清盛の菩提をとむらった「平相国廟(へいしょうこくびょう)」があります。

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兵庫の大仏

兵庫の大仏の台座の中には重要文化財の「十一面観音像」があります。高さ地上より18m、重さ約60ton。

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月照寺

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他に、神戸事件で責任を取って自害した「備前藩士滝善三郎正信の供養塔」の史跡もあります。

 

 

 

 

2021.08.06

アリの巣

 

今日 前の状態に戻ってきました

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昨日 少しずつ砂が増えてきました

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五日前 突然砂が無くなりました

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六日前

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2021.08.05

義経 打倒平家23 清盛七弁天

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1180年(治承四年)、福原遷都の際、平清盛が平家一門の氏神として深く信仰している安芸国厳島神社をこの地に勧請しました。福原京の周り七つの地に厳島神社を勧請したので、七弁天と呼ばれ花隈(はなくま)、佐比江(さぴえ)、西宮内(にしみやうち)、夢野(ゆめの)、真野(まの)、渦輪(うずわ)と兵庫となっています。
(兵庫厳島神社の説明板より)


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7 和田神社(あんぜん弁天)【地図
元は、現在地から西南に約800mの海岸にあり「蛭子(えびす)の森」と呼ばれていました。
平清盛が大輪田泊りの修築の際、事業の無事と将来の繁栄を祈願し安芸の宮島より市柿嶋姫大神を勧請しました。その後、南浜総氏神と広く人々に親しまれ、隣松院と呼ばれた社務所には、西国大名や勝海舟が訪れました。

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6 真光寺(おんがく弁天)【地図
時宗の開祖、一遍上人が亡くなったところに建立されたお寺です。境内の左手に一遍上人の廟所があり、五輪塔は県の重要文化財に指定されています。
※廟所(びょうしょ) 先祖の霊をまつる建物

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5 済鱗寺(べんきょう弁天)【地図
1493年(明応2年)、真誉林光上人の開祖。西連寺と号していました。海中より出現の阿弥陀仏像を本尊とし、魚類済度を合わせ行ったため、済鱗寺と改名した。先の大戦で本堂以下全てを焼失し、現在は仮の本堂に阿弥陀仏像をお祀りしています。

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4 恵林寺(うんどう弁天)【地図
1346年(貞和2年)錦江省文禅師により開山された臨済宗のお寺です。
境内には、平清盛が経ケ島築造の際に困難や水難克服を祈願して建てられた弁財社があり、「波除(なみよけ)の弁天」と呼ばれていました。

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3 兵庫厳島神社(おしゃれ弁天) 【地図
この付近は、昔「渦輪」と呼ばれた湊川の旧川筋にあたり、さらに地下水も湧き出して淵のようになっていたと言われていました。
清盛が兵庫津発展のためにこの神社を建立したと言われています。また、清盛ゆかりの「外弁天」と伝えられています。

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2 氷室神社(れんあい弁天) 【地図
源平合戦時、平通盛と愛妻・小宰相が別れを惜しんだ場所とされている。北城戸の陣があった。
日本書紀によると1600年ほど前に、額田大仲彦は、この地で狩をしていたとき、穴倉に「冬取った氷を草で包んでおくと夏も使えると聞き、天皇に献上したところ喜ばれた。日本最初の、冷蔵庫である。

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1 花隈厳島神社(けんこう弁天) 【地図
清盛が建立したときは宇治川の左岸にあったが、2度の移転で現在の場所に鎮座した。宇治川の近くの町名が弁天町なのは神社があった名残。

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能福寺(清盛くん)

来迎寺(松王丸くん)

 

(七弁天神社の紹介文は、「神戸かもめ」の記事を参考にしています。)

 

2021.08.01

義経 打倒平家22 福原遷都2

福原遷都2

清盛は、福原を理想の地とするため、天満神社、八幡神社、熊野神社、厳島神社などを勧請し、多門寺や妙法寺を鞍馬山になぞらえて福原鎮護のの霊場としたりしている。福原は、清盛が心血を注いで築こうとした理想都市だったのです。

(野村貴郎著 源義経 鵯越えの坂落し)

 

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黄字:福原遷都コース《 地図 》

  (赤字:大輪田泊りコース)

    2 厳島神社
   3 願成寺
   4 熊野神社
   5 雪見御所
   6 湊山温泉
   7 祇園神社
   8 鈴麦
   9 荒田神社
  10 宝地院
     11 氷室神社
  12 平業盛塚碑
  13  夢野八幡神社

 

11 氷室神社 《地図

平清盛が福原遷都の際、厳島神社を勧請し祀った七弁天の一つ。平家が三草山で破れ義経が鵯越に向かっているのを知り、能登守教経(のりつね)が陣をおいたのがこの辺りと言われている。近くに鵯越町の地名が残っている。
氷室の岩屋といわれ仁徳天皇の兄・糠田大中彦皇子が遊猟の際に氷室を発見し仁徳天皇に氷を献上した、日本最初の氷室。

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13 夢野八幡神社 

神戸市兵庫区氷室町1-5  (地図

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4 熊野神社   《地図》

平清盛が福原遷都の際、周辺に多くの寺や神社を祀って、新都の鎮護を祈っていますが、特に厳島神社と熊野神社は崇拝していたといわれています。
当神社の本殿は、紀州熊野権現と同じく巽(南東)の方向を向いており、「東向きの権現さん」と地元の人々から親しまれています。

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9 荒田八幡神社 《地図》

この付近は、平清盛の弟・池の大納言頼盛の山荘があったところと言われ福原遷都の際、安徳天皇の安在所となりました。
「史跡 安徳天皇安在所」と「福原遷都八百年記念の碑」です。

 兵庫県神戸市兵庫区荒田町にある、荒田神社の境内にあります。       

【 平家物語 都遷(みやこうつり) 】

1180年(治承四年)6月3日、福原へ行幸なさるというので、都のなかはたいへんな騒ぎであった。今年3歳の主上、中宮、後白河院、高倉上皇も行幸なさる。3日には、福原にお入りになる。池の中納言頼盛の宿所が皇居となった。

※福原とは、兵庫県神戸市兵庫区一帯のこと。
 池の中納言は、清盛の異母弟。
 遷都の際、高倉上皇は清盛邸に入られた。4日に天皇と上皇は入れ替わり、清盛邸が本皇居となった。

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10 宝地院 《地図》

安徳天皇の菩提を弔うため1279年(弘安二年)に建立されたといわれています。当地は荒田八幡神社のすぐ南に位置し、頼盛の山荘があったところで、安徳天皇の父高倉上皇の厳島御幸記に「・・・頼盛の家で笠懸流鏑馬(かさがけやぶさめ)など仕うまつらせ御覧ぜられる」とあり、頼盛の山荘は相当広い邸内であったと思われます。
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12 平業盛塚碑(善光寺別院)  《地図》

武勇に優れていたが、西城戸の大敗で、撤退を余儀なくされ、逃げ延びる途中、この地で源氏の泥屋四郎吉保と相対し、古井戸に落ちた相手を組み伏せたが、弟の五郎重行がはせ参じて業盛を討ち取ったと言われています。弱冠17歳でした。

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