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2021.07.18

義経 打倒平家19 北城戸の戦い3

北城戸の戦い3

平家軍の兵力は少なく見積もっても源氏の2倍、いや計算の仕方では10倍近くにもなります。しかも、戦場は平家の勝手知ったる福原の地です。

【平家軍防御網】 三草山生田の森(大将軍:平知盛)、山の手(鵯越の麓 大将軍:平通盛)、一の谷(西の木戸 大将軍:平忠度)、軍船上(駒ヶ林停泊 安徳天皇 平宗盛)

 

鵯越地図

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北城戸地図

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 1 平知章(ともあきら)
 2 平盛俊の碑
 3 監物太郎
 4 源平勇士の墓
 5 宝満寺
 6 駒林神社
 7 腕塚堂
 8 胴塚
 9 満福寺
10 平盛俊の墓
11 勝福寺
12 那須与一の墓
13 北向八幡神社
14 妙法寺
15 車大歳神社

 

5 宝満寺 《地図》

1180年(治承四年)に平清盛が福原遷都の際、福原京の西入り口にあたる現在地に移築させたと言われています。その時に、自筆の「護国殿額」と清盛自身の懐中仏「金胴帝釈天立像」とともに大修理を行っています。境内のに「福原内裏分石」と「福原内裏往古仏体刻付棒石」の標石が保存されています。

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 駒林神社 《地図》

1184年寿永三年)一の谷合戦の際、大輪田から駒ヶ林の沖合いには、安徳天皇の御座船と平家の総大将である平宗盛が指揮する軍船が停泊していたところです。

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 腕塚堂 《地図》

一の谷の合戦で西門の総大将をつとめた薩摩の守平忠度(ただのり)は、海沿いに逃げ延びいく途中で源氏の岡部六弥太忠純に追いつかれ双方組付きもみあっているところに、忠純に仕える郎党に腕を斬られてしまいます。源氏方が首をはねた後に、箙(えびら)に結ばれた文を開いてみると「旅宿花」という一首の歌が書かれており、武芸にも歌道にも優れた平忠度であることがわかりました。
忠度の塚は、近くに胴塚と明石市に腕塚神社と塚があります。

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 胴塚 《地図》

平忠度の塚  「旅宿花」 
行暮れて 木のしたかげを やどとせば はなやこよひの あるじならまし

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※平忠度のお墓は明石市にもあります。(次回で掲載)

 

 満福寺 《地図》

平清盛が創建したとの伝えがありますが定かではありません。近くの長楽町六丁目に「字福原」地名があり、平清盛が厳島神社に参詣の途上に、この付近に上陸して陸路で向かったと伝えられており、昔はこの辺り一帯を福原と呼んでいて、福原荘発祥の地とも言われたいます。
お寺を囲んだ石垣が亀の形をしていますので「亀の甲寺」と呼ばれています。

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道端の花7月

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義経 打倒平家」カテゴリの記事

コメント

しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。

平忠度は、ここに胴と腕の塚があります。
ここから西に行った明石市にも塚と腕塚があります。
どちらも資料に「ここで亡くなった」とあります。
平家西の守りの総大将だったの影武者が
いたのか?????

私もちょうど源平ブログに、腕塚堂の過去の記事をアップしようと
下書きしたところでした。
随分前のことですが、何となくこの辺りを歩いたのを覚えています。

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