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2021.07.15

義経 打倒平家18 北城戸の戦い2

北城戸の戦い2

鵯越とは、福原京や兵庫方面から藍那を経て播磨国へ出る古道の呼び名です。

鵯越墓園南の植え込みに「史蹟 鵯越」の碑が建っています。この辺りまで来ると、平家陣地は身近に迫り、右下には古明泉寺の平盛俊軍が、左下には平教経の守る陣地へ下りる鵯越本道が見えます。
(源義経 鵯越の坂落とし  野村貴郎著 神鉄観光事業部)

 

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鵯越地図

 

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1183(寿永二)2月6日、義経は軍を2ツに分け土肥実平(どひさねひら)に7000騎を預け一の谷の西側から攻め込ませるために明石に向かわせた。義経は、少数精鋭の人数(70余騎)を率いて鵯越を通り一の谷を背後から攻めるため出発する。(源義経はこのあたりから一の谷に向かい攻め入ったと伝えられています)



≪ 地 図 ≫

 


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北城戸地図

 1 平知章(ともあきら)
 2 平盛俊の碑
 3 監物太郎
 4 源平勇士の墓
 5 宝満寺
 6 駒林神社
 7 腕塚堂
 8 胴塚
 9 満福寺
10 平盛俊の墓
11 勝福寺
12 那須与一の墓
13 北向八幡神社
14 妙法寺
15 車大歳神社

 

10 平盛俊の墓   《地図》

北城戸の大将平盛俊は、明泉寺から南へ逃げる途中で、源氏の猪俣小平六則綱と一騎打ちとなり、盛俊が優勢となり則綱が降参したためあぜ道で休んでいるところへ、源氏の人見四郎が近づいてきたのに気を奪われていた盛俊に則綱が襲い、盛俊は首を討たれた。

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11 勝福寺 《地図》

平清盛が経ケ島(きょうがしま)築造の際、この寺の衆徒が大いに協力したので、重要文化財になっている金銅製の密教法典のほか築島供養式の際の幡などが寄進されています。

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12 那須与一の墓《地図》

源義経に従い数々の戦陣に加わったとされ、屋島の合戦では扇の的を射落とし賞賛を得た若者。晩年、与一はこの地にお礼参りに訪れますが、病のためここで亡くなったと伝えられています。この墓にお参りすると、年老いてもシモの世話にならないと言い伝えられています。又、弓の名人であった与一にあやかろうと弓道者やアーチェリーの関係者も訪れます。
道路を隔てた東側に那須神社があります。

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13 北向八幡神社(那須神社)《地図》  

一の谷合戦で源義経は、村人から「ご神威が高く飛ぶ鳥でさえ社殿の上空を飛べない社がある」と聞き、那須与一に武運長久を祈らせた。那須与一を祭った那須神社もあります。
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14 妙法寺《地図》

平清盛は福原遷都の際に、平安京の鞍馬になぞらえて、ここを新鞍馬といって王城鎮護の霊場とし、寺領として1千石余りを寄進したと言われています。

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(以下の大歳神社は、源平合戦とは特に関係はありません)

15 大歳神社
神戸市須磨区車字松ケ原551 (地図

国指定重要無形民族文化財の「翁舞(おきなまい)」が伝わっています。
翁舞は、能楽の源流とされる中世芸能で、一般には「露払い」「翁」「三番叟」の3部構成ですが、当社の舞は、後に「父の尉(じょう)」が加わる4部構成です。これは、江戸時代の形態で、芸能の変遷を示す全国的にも珍しいものです。毎年、1月14日に行われる。

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 大変分かりにくいところです。
バス道で左写真の神社案内版を見たら坂を上がってください。

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義経 打倒平家」カテゴリの記事

コメント

しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。

地図は、私が訪問するときに使ったところに
リンクを貼りました。
これを見て訪問される方が使ってもらえると
嬉しいです。

那須与一は、人気があったのでしょう。

ラメールさんの記事は、地図を掲載されているので
非常に位置関係がわかりやすいですね。
これなら史跡巡りをする人が、見落としがなく
まわれますね。
那須与一の墓は、各地にありますね。
それだけ慕われた人だったのでしょうね。

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