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2021年7月

2021.07.29

義経 打倒平家21 福原遷都1

福原遷都1

平安時代末期、平家一門が日宋貿易の港である大輪田泊りを見晴らす福原の地(現在の兵庫県神戸市兵庫区)を領有し、ここに多くの邸宅を構えた。1180年(治承四年)、政権の強化を図った平清盛が孫の安徳天皇を奉じ都造りをはかったのが「福原遷都」である。
しかし、都造りは途中で頓挫し、半年で平安京に還都したため実態としての都は完成しなかった。

「平家物語」などには平清盛が福原の地にいくつかの邸宅をもっていたことが書かれている。又、雪見御所(清盛の別邸)の北に安徳天皇が福原遷都の半年を過ごした「本皇居の平野殿」のあったこと、又清盛の子息宗盛邸のあった可能性が当時の貴族の日記の記述などから知られる。発掘調査でも上祇園町でも貴族の邸宅跡の庭の存在が確認されている。
古記録と発掘調査の成果から、この地に「福原京」の中心となる平家の邸宅がいくつも存在することが推測できる。

ここ「平野」の地は、まさにその名の示すとおり『平』家の本拠があった『野』と言える。
福原と言う地名は無く、現在の平野・石井・夢野・荒田一体の総称であり、800年前には、福原とよんで居たのかもわからない。

(野村貴郎著 「源義経 鵯越の坂落し」 神鉄観光事業部)

 

福原遷都関係年表  
1118年(元永元年) 平清盛生誕
1159年(平治元年 保元の乱で清盛(41歳)勝利
 1167年(仁安二年) 清盛 太政大臣となり平家が最も栄えたとき
1168年(保安三年) 清盛(50歳)太政大臣を辞し神戸の能福寺にて出家し、
福原の地に別荘「雪の御所」を建て休養する
1180年(治承四年)  清盛(62歳)の外孫安徳天皇が即位する
安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇をひきつれ
6月2日神戸福原に都を移す(福原遷都)
11月26日都を京に戻す
1181年(養和元年) 清盛(63歳)、あっちっち病という熱病に侵され死亡
1184年(寿永三年) 平家、一の谷の戦いで破れ屋島に逃げる

 

 

福原遷都コース 《 地図 》
  (赤字:大輪田泊りコース)
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   (黄色文字)

         2 厳島神社
   3 願成寺
   4 熊野神社
   5 雪見御所
   6 湊山温泉
   7 祇園神社
   8 鈴麦
   9 荒田神社
  10 宝地院

  12 平業盛塚碑
  11 氷室神社
  13  夢野八幡神社

 

 雪見御所  《地図》

清盛は、1167年(仁安二年)に太政大臣を辞しこの地に隠居し、没するまでの約10年間を別荘で過ごしたといわれています。その間この別荘で、大輪田の泊の修築や対宋貿易・福原遷都などの大事業が計画された。清盛亡き後、平家都落ちの際に、全てを焼き払って落ち延びた。湊山小学校北側に設置され、この辺りを雪御所町と呼びます。

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6 湊山温泉  《地図》

「山槐記(さんかいき)」に1179年(治承三年・福原遷都の前年)6月に「清盛邸を去る1丁ばかりにある湯屋へ車で渡らせ給う」と書かれています。雪の御所から一丁の場所が今の天王川沿いの鉱泉が湧き出る「天王・湊山温泉」付近と思われる。湊山温泉、天王温泉(05年に廃業)石碑には「天王温泉は平清盛、豊太閤に由緒ある温泉にして橋を渡りて山沿いに二丁行けば守護神と豊国稲荷あり」と書かれています。

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7  祇園神社 《地図》

平清盛は、経ケ島を築造の際、ここにあった山寺で海潮を聞きながら計画を練ったと伝えられています。潮音山上伽寺はこの神社の裏山にあったと伝えられています。階段は90段、眺めは最高で大輪田の泊まで見渡せた。

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2 厳島神社 《地図》

1180年(治承四年)、福原遷都の際、平清盛が平家一門の氏神として深く信仰して いる安芸国厳島神社をこの地に勧請しました。福原京の周りに七つの地に厳島神社を勧請したので、七弁天と呼ばれています。 
 ※ 勧請(かんじょう):神仏の分霊をむかえること

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「源義経 鵯越の坂落し」
 野村貴郎著  神鉄観光事業部

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神戸・三木・小野・篠山・加東

源平史蹟ハンドブック

 

 

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2021.07.22

義経 打倒平家20 明石源平

明石 源平史跡巡り

平忠度(ただのり)は、清盛の末弟で一の谷合戦・西門の大将軍で歌人としても有名です。『資料によれば「亦(また)播州明石、人麿堂の邉に忠度卿の塚あり。戦死の處、是にあり」と記されている』とあります。

 

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(明石源平地図  



明石源平合戦の碑 

一の谷の合戦で破れた平家は西に逃れ明石にたどり着いたところで源氏の追っ手に捕まる。
山陽電鉄「人丸前」駅の高架下に建てられている
≪ 地 図 ≫

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1184年(寿永三年)2月、一の谷の戦いで敗れた西の手の大将:平忠度(ただのり)が岡部六弥太(ろくやた)に追いつかれ川をはさんで戦ったので「両馬川」と名がついたと伝えられている。現在は、川はないが近くに池があったので川が流れていたと考えられる。

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忠度塚
忠度の亡骸を埋めたところと伝えられている(清盛の弟、正四位下、薩摩守)。

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平忠度塚地図

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忠度塚を100m西に行くと忠度公園があります。

この辺り一帯は以前忠度町と言われていました。

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忠度公園

 

忠度を祀る「腕塚神社」

忠度が討たれたのがこのあたりと伝えられている。

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「行きくれて 木の下かげを やどとせば
  花やこよひの あるじならまし 忠度」

武勇にすぐれており、勅撰集に入選する歌人でもあった。

腕塚神社地図

 

 

平経盛子供の経正(敦盛の兄)の馬を埋めた所と言われています。

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お寺再興に尽力した平清盛の供養塔があります。
善楽寺

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2021.07.20

せみの抜け殻

せみの抜け殻

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2021.07.18

義経 打倒平家19 北城戸の戦い3

北城戸の戦い3

平家軍の兵力は少なく見積もっても源氏の2倍、いや計算の仕方では10倍近くにもなります。しかも、戦場は平家の勝手知ったる福原の地です。

【平家軍防御網】 三草山生田の森(大将軍:平知盛)、山の手(鵯越の麓 大将軍:平通盛)、一の谷(西の木戸 大将軍:平忠度)、軍船上(駒ヶ林停泊 安徳天皇 平宗盛)

 

鵯越地図

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北城戸地図

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 1 平知章(ともあきら)
 2 平盛俊の碑
 3 監物太郎
 4 源平勇士の墓
 5 宝満寺
 6 駒林神社
 7 腕塚堂
 8 胴塚
 9 満福寺
10 平盛俊の墓
11 勝福寺
12 那須与一の墓
13 北向八幡神社
14 妙法寺
15 車大歳神社

 

5 宝満寺 《地図》

1180年(治承四年)に平清盛が福原遷都の際、福原京の西入り口にあたる現在地に移築させたと言われています。その時に、自筆の「護国殿額」と清盛自身の懐中仏「金胴帝釈天立像」とともに大修理を行っています。境内のに「福原内裏分石」と「福原内裏往古仏体刻付棒石」の標石が保存されています。

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 駒林神社 《地図》

1184年寿永三年)一の谷合戦の際、大輪田から駒ヶ林の沖合いには、安徳天皇の御座船と平家の総大将である平宗盛が指揮する軍船が停泊していたところです。

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 腕塚堂 《地図》

一の谷の合戦で西門の総大将をつとめた薩摩の守平忠度(ただのり)は、海沿いに逃げ延びいく途中で源氏の岡部六弥太忠純に追いつかれ双方組付きもみあっているところに、忠純に仕える郎党に腕を斬られてしまいます。源氏方が首をはねた後に、箙(えびら)に結ばれた文を開いてみると「旅宿花」という一首の歌が書かれており、武芸にも歌道にも優れた平忠度であることがわかりました。
忠度の塚は、近くに胴塚と明石市に腕塚神社と塚があります。

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 胴塚 《地図》

平忠度の塚  「旅宿花」 
行暮れて 木のしたかげを やどとせば はなやこよひの あるじならまし

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※平忠度のお墓は明石市にもあります。(次回で掲載)

 

 満福寺 《地図》

平清盛が創建したとの伝えがありますが定かではありません。近くの長楽町六丁目に「字福原」地名があり、平清盛が厳島神社に参詣の途上に、この付近に上陸して陸路で向かったと伝えられており、昔はこの辺り一帯を福原と呼んでいて、福原荘発祥の地とも言われたいます。
お寺を囲んだ石垣が亀の形をしていますので「亀の甲寺」と呼ばれています。

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道端の花7月

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2021.07.15

義経 打倒平家18 北城戸の戦い2

北城戸の戦い2

鵯越とは、福原京や兵庫方面から藍那を経て播磨国へ出る古道の呼び名です。

鵯越墓園南の植え込みに「史蹟 鵯越」の碑が建っています。この辺りまで来ると、平家陣地は身近に迫り、右下には古明泉寺の平盛俊軍が、左下には平教経の守る陣地へ下りる鵯越本道が見えます。
(源義経 鵯越の坂落とし  野村貴郎著 神鉄観光事業部)

 

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鵯越地図

 

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1183(寿永二)2月6日、義経は軍を2ツに分け土肥実平(どひさねひら)に7000騎を預け一の谷の西側から攻め込ませるために明石に向かわせた。義経は、少数精鋭の人数(70余騎)を率いて鵯越を通り一の谷を背後から攻めるため出発する。(源義経はこのあたりから一の谷に向かい攻め入ったと伝えられています)



≪ 地 図 ≫

 


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北城戸地図

 1 平知章(ともあきら)
 2 平盛俊の碑
 3 監物太郎
 4 源平勇士の墓
 5 宝満寺
 6 駒林神社
 7 腕塚堂
 8 胴塚
 9 満福寺
10 平盛俊の墓
11 勝福寺
12 那須与一の墓
13 北向八幡神社
14 妙法寺
15 車大歳神社

 

10 平盛俊の墓   《地図》

北城戸の大将平盛俊は、明泉寺から南へ逃げる途中で、源氏の猪俣小平六則綱と一騎打ちとなり、盛俊が優勢となり則綱が降参したためあぜ道で休んでいるところへ、源氏の人見四郎が近づいてきたのに気を奪われていた盛俊に則綱が襲い、盛俊は首を討たれた。

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11 勝福寺 《地図》

平清盛が経ケ島(きょうがしま)築造の際、この寺の衆徒が大いに協力したので、重要文化財になっている金銅製の密教法典のほか築島供養式の際の幡などが寄進されています。

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12 那須与一の墓《地図》

源義経に従い数々の戦陣に加わったとされ、屋島の合戦では扇の的を射落とし賞賛を得た若者。晩年、与一はこの地にお礼参りに訪れますが、病のためここで亡くなったと伝えられています。この墓にお参りすると、年老いてもシモの世話にならないと言い伝えられています。又、弓の名人であった与一にあやかろうと弓道者やアーチェリーの関係者も訪れます。
道路を隔てた東側に那須神社があります。

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13 北向八幡神社(那須神社)《地図》  

一の谷合戦で源義経は、村人から「ご神威が高く飛ぶ鳥でさえ社殿の上空を飛べない社がある」と聞き、那須与一に武運長久を祈らせた。那須与一を祭った那須神社もあります。
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14 妙法寺《地図》

平清盛は福原遷都の際に、平安京の鞍馬になぞらえて、ここを新鞍馬といって王城鎮護の霊場とし、寺領として1千石余りを寄進したと言われています。

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(以下の大歳神社は、源平合戦とは特に関係はありません)

15 大歳神社
神戸市須磨区車字松ケ原551 (地図

国指定重要無形民族文化財の「翁舞(おきなまい)」が伝わっています。
翁舞は、能楽の源流とされる中世芸能で、一般には「露払い」「翁」「三番叟」の3部構成ですが、当社の舞は、後に「父の尉(じょう)」が加わる4部構成です。これは、江戸時代の形態で、芸能の変遷を示す全国的にも珍しいものです。毎年、1月14日に行われる。

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 大変分かりにくいところです。
バス道で左写真の神社案内版を見たら坂を上がってください。

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2021.07.12

義経 打倒平家17 北城戸の戦い1

北城戸の戦い1

東の生田の森、西の一の谷の中間にあたる平家の砦の攻防を「北城戸の戦い」と言って、この戦いで戦死した源平の勇士の史跡を紹介します。(赤丸印)

 

源氏軍は、東は生田の森から西は一の谷へそして義経隊は鵯越から奇襲攻撃をしかけました。
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(鵯越地図)

 

 

北城戸の戦い
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北城戸地図

 1 平知章(ともあきら)
 2 平盛俊の碑
 3 監物太郎
 4 源平勇士の墓
 5 宝満寺
 6 駒林神社
 7 腕塚堂
 8 胴塚
 9 満福寺
10 平盛俊の墓
11 勝福寺
12 那須与一の墓
13 北向八幡神社
14 妙法寺
15 車大歳神社 

 

平知章(ともあきら) 明泉寺 《地図》

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生田の森の大将軍新中納言知盛は部下の者総てを落ち失せ、息子武蔵の守:知章、監物太郎頼賢と 主従三騎汀の方へ落ち行けり・・・。源氏側の大将と思はるる一騎の武者は知盛に組付かんと 駆寄れば、息知章は父を討たすまじと中へたて、むずと組付き取って押へ首を取り立上がらんとする 処を敵兵ち重なりて遂に知章の首を揚げた。・・・其の間に紛れ新中納言知盛は井上黒の愛馬 にて海上二十丁計り泳ぎ舟に乗り移り助かり給へり。

 

 平盛俊(もりとし) 《地図

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北門の大将越中前司平盛俊は、明泉寺から南へ逃げ延びる途中で、源氏の猪俣小平六則網と一騎打ちとなり、双方むんずと組付いて 戦い盛俊が優勢となり則網が降参したため あぜ道で休んでいるところへ源氏の人見四郎が近づいてきた。近づく敵に気を奪われている最中に、盛俊は、則網に襲われ首を討たれてしまいました。

 

 

 監物太郎(けんもつ) 《地図》

源平一の谷合戦で、東城戸を守っていた平知盛は、子知章と家来の監物太郎頼方(よりかた)とこの付近まできたとき、源氏軍に追い詰められ、この時監物太郎は知盛を助けようと知章とともに奮戦し、無事知盛を逃します。しかし、戦闘の中で、知章もまた敵に討たれてしまいます。最後に残った監物太郎は知章の仇と相討ち、命を散らしました。
この太郎の忠義心が地元住民の心に忠臣として大事に祀られるようになったのがこの場所です。『監物太郎はその中の一兵の首を取った。彼は矢種のある程を射尽くし太刀を抜いて戦ったが左の膝口を敵に射られ立上がらず討ち死にせり。
  
  (新訳平家物語抜粋)

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源平勇士の墓 《地図》

中央は平知章の碑  右から平通盛(みちもり) この付近で源氏の木村源吾重章(中央)と相討ちで亡くなくなった。左は源氏方の猪俣小平六則の碑でこの付近で戦死した。彼らを供養する碑が源平仲良く祀られています。これらの碑はもっと南にありましたが道路拡張工事によって現在の地に移築されました。知章の碑はその時に建てられたものです。

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2021.07.08

義経 打倒平家16 東城戸の戦い2

東城戸の戦い2

三草山の戦いに勝利した義経は軍勢を二手に分け、一隊を山陽道から一の谷西方に向かわせ自らは一隊を率いて鵯越に向かった。大手口では範頼軍が生田川を防衛線とする平氏に攻撃を仕掛けたが、・・・・

(平清盛と平家物語 監修:日下 力  青春出版社)

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  1 布引の滝     

 2 北野天満神社

 3 生田神社

 4 六甲八幡神社

 5 小野八幡神社

 6 三宮神社

 7 熊野神社

 8 篠原北厳嶋神社

 9 花隈厳島神社

 

2 北野天満神社(天満宮勧請)
《 地 図 》
平清盛が福原遷都の際に、禁裡守護・鬼門鎮護の神として京都の北野天満宮を勧請して建立し、このあたりの村を北野村と呼ぶようにしたと言われています。
当神社前の東西の道は北部西国街道として旅人の往来も多く、また隣には「風見鶏の館」や南を望めば神戸港を一望できる景勝の地として昔から観光地としても有名なところです。

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風見鶏が見えます

 

7 熊野神社(宇治新帝)
   
《 地 図 》
平清盛の福原遷都の際に、五条大納言那綱が再建したと言われています。五条大納言那綱は、この地域に「宇治新亭」を造り、安徳天皇が還都の折にこの亭に一泊されたと言われています。

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8 篠原北厳嶋神社

《 地図 》
創建は「福原新都の節、布引の滝より夜な夜な光物有と清盛公より言われる。これを退治すると白玉を頂く大竜なり、この白玉を此所に安置し奉った」と古老より言い伝えられることより、治承4年とされる。
神社の縁起となっている「福石」は、平清盛が平盛継に命じて討ち取った、頭に珠を担ぐ大蛇の首を埋めた上に置いた大きな石といわれています。


 
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9 花隈厳島神社
 
神戸市中央区花隈町6-5 《地図
清盛が経が島(きょうがしま)を築造の際に、人々の安泰を願い、厳島明神を宮島の七浦にちなみ7カ所に祭り、兵庫七弁天と呼びました。その一つが花隈弁天です。

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 平家伝説 布 引 の 滝 

「平家物語」では、平清盛の滝見物の際に同行の難波経房が悪源太源義平の雷に殺される話や、「源平盛衰記」では、清盛の長子重盛が滝を見にきた際、家来の難波経俊が滝つぼに入り竜宮城を見て出たところを雷に打たれたなどの話があります。

布引の滝は、日光華厳の滝・紀州那智の滝とともに三大神滝と呼ばれています。
上流から雄滝、夫婦滝、鼓滝そして雌滝と続き四つの滝を総称して布引の滝と言います。

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雄滝
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鼓滝
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夫婦滝
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雌滝

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(平清盛と平家物語 監修:日下 力  青春出版社)

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2021.07.04

義経 打倒平家15 東城戸の戦い1

 東城戸の戦い1

1184年(寿永三年)2月7日、源範頼(のりより)率いる源氏の大手軍は、生田川の東堤に陣を張り、夜明けから攻撃を開始したものの、平知盛(とももり)を大将軍とする平家陣の防御は堅く、押し寄せることもできずにいた。
源氏軍は生田川の水量と逆茂木に苦しめられ、浜手の方から攻め入ったようである。源氏の軍勢の猛攻撃で、生田の森の下手から城の口辺りにかけてが激戦地となった。
( 「義経 鵯越の坂落し」より )

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1 布引の滝
2 北野天満神社
3 生田神社
4 六甲八幡神社
5 小野八幡神社
6 三宮神社
7 熊野神社
8 篠原北厳嶋神社
9 花隈厳島神社

 

生田の森・生田川(東城戸)

《 生田の森地図 》
一の谷合戦の際、平家軍はこの生田の森を東の城戸として、生田川に茂木を並べて陣を張り、平知盛を大将として源氏の範頼軍を迎え撃った場所です。

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生田川地図
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3 生田神社(東城戸)
     
《 地 図 》
生田神社の裏に生田の森の面影が残っています。境内には梶原源太景季が咲き誇る梅を箙(えびら)にさして奮戦したという「箙の梅」、「梶原の井」また武蔵坊弁慶が義経の代理として参拝した折に奉納した竹などが史跡として残されています。

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4 六甲八幡神社(八幡宮勧請)
   
《 地 図 》
平清盛が福原遷都のとき京都岩清水八幡宮を勧請し、地名も八幡に改めたとあります。
「太平記」摩耶城合戦(1333)の条に「八幡林」とあるのは当社の森のことです。

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5 小野八幡神社(河原兄弟)
   
《 地 図 》 

兵庫県神戸市中央区八幡通4-1-37

源平一の谷合戦の東城戸の戦いで先駆けして討ち死にした源氏の河原太郎高直と次郎盛直兄弟の功を賞して報恩寺を建て、寺の鎮守としてこの社を建立したと言われています。
兄弟の史跡は、三宮神社に「河原霊社」と追谷墓園内に「河原兄弟の墓」があります。

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6 三宮神社(河原霊社)
   
《 地 図 》
東城戸の戦いで戦死した河原兄弟の功に報い、源頼朝が報恩寺を建立した。三宮の発展で行方不明となったが、地元の有志が三宮神社境内に「河原霊社」の小祠(ほこら)を建立したものです。
境内には「史跡神戸事件発生の地」の石碑と昔の大砲が置かれています。

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2021.07.01

義経 打倒平家14 石山寺頼朝

奈良時代後期、聖武天皇の勅願で良弁が開いた。広大な敷地の中に寺名の由来となった天然記念物の硅灰石(けいかいせき)がそびえています。国宝の本堂、多宝塔など多数の文化財があります。その中に、源頼朝が寄進したものもあります。
紫式部が源氏物語を書いたのもこの寺で部屋が残っています。

所在地:滋賀県大津市石山寺1-1-1 地図

 

石山寺正門

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源頼朝が寄進した多宝塔(国宝)
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源頼朝が寄進した鐘楼
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頼朝と亀谷
(頼朝の乳母)供養塔

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紫式部が源氏物語を書いたのがこの部屋だと言われています。

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