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2021.06.10

義経 打倒平家7 三草山合戦

三草山合戦

1184(寿永3)年1月、源氏軍は平氏が拠点とする福原(神戸市兵庫区)を目指して出陣した。2月5日に摂津国(兵庫県篠山市)に入ると、平家の拠点とする福原を東西から挟み撃ちにするために軍勢を二手に分け、大手(福原の東方:生田の森)を攻める源範頼は西国街道を搦手(福原の西方:一の谷)を攻める義経は丹波路を進みました。

 



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訪問史跡 地図

 三草山(4)
 清水寺(4)
 朝光寺(4)
 埼鹿寺(4)
 薬師堂(3)
 五輪塔(3)
 佐保神社(2)
 山氏神社(2)
 義経腰掛石(1)
 夜泣きの白拍子さん(1)
 国位田の碑(1)
 こくい坂・亀井が淵(1)
 弁慶の重ね石(1)
 弁慶の足跡(1)
 清水寺(4)
 一の谷合戦場
 福原京
 生田の森


初戦の地:三草山 (地図
2月5日、義経軍は、平資盛(たいらのすけもり)らが守る三草山(兵庫県加東市)で決戦に挑んだ。

『平家物語』「三草合戦」の段によると、義経は土肥実平(どいさねひら)を呼び、今晩夜討ちをかけるか、明日の合戦とすべきかを問う。田代冠者信綱が進み出て「明日の合戦となれば、平家の軍勢は増すので、数の上で有利な今、夜討ちをかけるべきです」と進言。義経はそれを受け入れ、夜討ちを決行するべく民家に火を放って進撃した。



三草山勢揃い

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三草山合戦の事1

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   三草山合戦の事(2)

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平家本陣跡
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弁慶の力石
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薬師堂
平家一門の菩提を弔うための堂ですが、今は、荒れ果てて今にも朽ち果てそうです。

(三草山からすぐのところにあります。)
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五輪塔
鎌倉時代前期の作と言われており中村家先祖の塔、一説によれば、三草山合戦の戦死者の供養塔とも言われています。
(三草山からすぐのところにあります)
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佐保神社(さほじんじゃ) (地図
三草山で勝利した義経は、佐保神社に兵を集結させ休息を取り、土肥実平(どいさねひら)に主力軍を預け、一の谷西木戸を攻撃するように命じ、自らは少数の兵をひきいて、朝光寺から埼鹿寺(はしかでら)へ、そして、鵯越えに向かった。
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近くに同名の佐保神社があります。



山氏神社(義経手植えの松)地図
佐保神社の近くにある山氏神社(やまうじじんじゃ)にあります。
  
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義経手植えの松
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義経は自軍を二手に分けて、7000騎(実際は700騎か)を土居実平(どいさねひら)に預け、須磨一の谷(兵庫県神戸市須磨区)に向かわせ、義経自身は、3000騎(実際は300騎か)の精鋭を率いて鵯越を目指しました。(義経軍の人数は、諸説ありますが、平家物語の数字を使っています)

 

 

 

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コメント

しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。

古い記事を見ながら昔を思い出しています。

義経の時代は、何もなかったのでしょう。

こんなところで源平合戦の第一戦があったとは。

ラメールさんに車で案内していただいた時のことを思い出しています。
到底、公共交通機関では行けないような史跡に連れていっていただいて
感謝しております。
あの頃は、めりぃさんも現役ブロガーで、活動していましたね。

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