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2021年6月

2021.06.29

道端の花

 

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2021.06.27

義経 打倒平家13 三井寺弁慶

園城寺は、天台寺門宗本山で、三井寺とも言われています。その中に弁慶の史跡があります。
所在地:滋賀県大津市園城寺町246 (地図
  

園城寺門(三井寺)
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延暦寺と園城寺(三井寺)が争いをくりかえしていた頃,強力で知られた弁慶が延暦寺の僧兵として園城寺を攻め、戦利品として弁慶は園城寺の鐘をひきずって持ち帰りました。しかし、鐘をつくと 鐘はゴーンとならず、「イノーウ、イノーウ」(関西弁で帰ろうの意)とひびきわたりました。これを聞いた弁慶は大いに怒り、この鐘を谷間に投げ捨ててしまいました。 争いがおさまって 鐘は園城寺に帰りましたが今も残るこの鐘には弁慶がひきずったときについた跡がくっきりと刻まれています。



 
霊鐘堂(弁慶鐘)

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霊鐘堂(弁慶の鐘が保存さっれています)
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弁慶の引き摺り鐘と弁慶の汁鍋
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三井の晩鐘
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2021.06.25

久々の明石海峡大橋

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タピオカドリンク

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2021.06.24

紫陽花も終わりです

紫陽花も終わりです

 

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2021.06.23

義経 打倒平家12 鷲尾家

三草山合戦で勝利した義経は鵯越を越えるため、猟師の鷲尾三郎に先導役を頼み藍那道を南下して行きました。


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鷲尾家屋敷跡
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この辺りは、鷲尾家の土地で近くの山は、鷲尾山と呼ばれお墓があります。

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鷲尾家墓地
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義経のヒヨドリ越えの道案内をした鷲尾三郎はこのあたりから一の谷に向かいました。ここから15Kほど南に一の谷があります。 (兵庫県神戸市北区山田町)

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福田寺(ふくでんじ 鷲尾家菩提寺)
兵庫県神戸市北区山田町東下
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一の谷合戦の道案内をした鷲尾三郎は、その後、義経と行動を共にして奥州で討ち死にしました。

2021.06.21

義経 打倒平家11 弁慶の重ね石、足跡

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弁慶の重ね石 地図
ハッタイを食べて、腹いっぱいになった弁慶が、力一杯投げ上げて積んだという石。
  

以上の国位田碑、義経腰掛石、粉喰坂と亀井が淵、弁慶の重ね石の史跡は、兵庫県小野市樫山町にあります。


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弁慶の足跡弁慶の足跡 地図)
兵庫県三木市跡部
左の石には足跡のように凹んでいます。
(どこのことかわかりません。)
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二つの石の表には地蔵尊が彫ってあります。

 

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2021.06.20

アリの巣

アリの巣が雨のためか消えました。

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写真がボケボケです

2021.06.17

義経 打倒平家10 義経道国位田碑他

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(よしつねこうぐんどう2)

三草山で戦った義経軍が平家の本拠:福原を攻めるため行軍した道にある史跡の紹介をしています。

三草山で勝利した義経軍は、佐保神社で集結、休息し、ここから、土肥実平に主力軍を預け、義経は、少数で、朝光寺から埼鹿寺をへて鵯越えに向かった説が有力ですが、今回紹介する史跡は、主力軍の通った175号線に沿ってあります。

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国位田碑(こくいだのひ) (地図
三草山の戦い後、義経一行が空腹で困ってると土地の老婆がハッタイ(焼麦又は焼米の粉)を献上した。義経は、老女に報いるために、粉食(こくい)という姓と六畝歩の田を与え、年貢を免除した。年貢免除の恩典は、明治まで続いたと言われています。
このことを記した碑です。
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義経腰掛石 (地図
ハッタイを食べた時に腰掛けていた石
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粉喰坂(こくいざか)と亀井が淵 地図
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亀井が淵
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夜泣きの白拍子さん 地図
平家の公達を追って来た白拍子がこの地で倒れ、死に際に親切にしていただいたお礼に、夜泣きが止まらない子があれば、私が治してあげましょう」と言い残した夜泣きを治す神様として信仰されています。
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2021.06.15

義経 打倒平家9 清水寺

清水寺(きよみずでら)(地図
西国25番札所、源平との縁の深いお寺です。

阿弥陀堂は源頼朝の建立。


清水寺と力士像
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大塔跡
平清盛の生母:祇園女御の建立
  
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薬師堂
清盛の養母:池禅尼の建立  
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寶鏡
平清盛母祇園女御奉納
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弁慶の碁盤
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弁慶が担ぎ上げたが力尽きて置いた石があります。

 

2021.06.13

義経 打倒平家8 朝光寺他

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三草山で勝利した義経は、佐保神社に兵を集結させ休息を取り 自軍を二手に分けて、7000騎(実際は700騎か)を土居実平(どいさねひら)に預け、須磨一の谷西木戸(兵庫県神戸市須磨区)に向かわせ、義経自身は、3000騎(実際は300騎か)の精鋭を率いて朝光寺から埼鹿寺(はしかでら)へ、そして、鵯越えに向かった。
(義経軍の人数は、諸説ありますが、平家物語の数字を使っています)

 

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朝光寺 掎鹿寺(はしかじ)
兵庫県加東市畑609 

掎鹿寺(加東市黒谷986)

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義経道

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源義経 鵯越の坂落とし 野村 貴郎著 神鉄観光事業部
神戸・三木・小野・篠山・加東 源平史蹟ハンドブック

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2021.06.11

6月の花 紫陽花

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2021.06.10

義経 打倒平家7 三草山合戦

三草山合戦

1184(寿永3)年1月、源氏軍は平氏が拠点とする福原(神戸市兵庫区)を目指して出陣した。2月5日に摂津国(兵庫県篠山市)に入ると、平家の拠点とする福原を東西から挟み撃ちにするために軍勢を二手に分け、大手(福原の東方:生田の森)を攻める源範頼は西国街道を搦手(福原の西方:一の谷)を攻める義経は丹波路を進みました。

 



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訪問史跡 地図

 三草山(4)
 清水寺(4)
 朝光寺(4)
 埼鹿寺(4)
 薬師堂(3)
 五輪塔(3)
 佐保神社(2)
 山氏神社(2)
 義経腰掛石(1)
 夜泣きの白拍子さん(1)
 国位田の碑(1)
 こくい坂・亀井が淵(1)
 弁慶の重ね石(1)
 弁慶の足跡(1)
 清水寺(4)
 一の谷合戦場
 福原京
 生田の森


初戦の地:三草山 (地図
2月5日、義経軍は、平資盛(たいらのすけもり)らが守る三草山(兵庫県加東市)で決戦に挑んだ。

『平家物語』「三草合戦」の段によると、義経は土肥実平(どいさねひら)を呼び、今晩夜討ちをかけるか、明日の合戦とすべきかを問う。田代冠者信綱が進み出て「明日の合戦となれば、平家の軍勢は増すので、数の上で有利な今、夜討ちをかけるべきです」と進言。義経はそれを受け入れ、夜討ちを決行するべく民家に火を放って進撃した。



三草山勢揃い

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三草山合戦の事1

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   三草山合戦の事(2)

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平家本陣跡
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弁慶の力石
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薬師堂
平家一門の菩提を弔うための堂ですが、今は、荒れ果てて今にも朽ち果てそうです。

(三草山からすぐのところにあります。)
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五輪塔
鎌倉時代前期の作と言われており中村家先祖の塔、一説によれば、三草山合戦の戦死者の供養塔とも言われています。
(三草山からすぐのところにあります)
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佐保神社(さほじんじゃ) (地図
三草山で勝利した義経は、佐保神社に兵を集結させ休息を取り、土肥実平(どいさねひら)に主力軍を預け、一の谷西木戸を攻撃するように命じ、自らは少数の兵をひきいて、朝光寺から埼鹿寺(はしかでら)へ、そして、鵯越えに向かった。
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近くに同名の佐保神社があります。



山氏神社(義経手植えの松)地図
佐保神社の近くにある山氏神社(やまうじじんじゃ)にあります。
  
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義経手植えの松
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義経は自軍を二手に分けて、7000騎(実際は700騎か)を土居実平(どいさねひら)に預け、須磨一の谷(兵庫県神戸市須磨区)に向かわせ、義経自身は、3000騎(実際は300騎か)の精鋭を率いて鵯越を目指しました。(義経軍の人数は、諸説ありますが、平家物語の数字を使っています)

 

 

 

2021.06.08

義経 打倒平家6 間眠神社

1180年、源頼朝が源氏再興を祈願するために三嶋大社にお参りした途中で休憩の為に休んでそのまま寝てしまった場所に社が建てられそこを間眠神社(まどろみじんじゃ)と呼ぶようになった。

 

間眠神社(まどろみ)



間眠(まどろみ)の松





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間眠神社地図(静岡県三島市東本町2-11)
三島駅より約1.5K

 

2021.06.05

義経 打倒平家5 頼朝と対面

1180年。平家追討の軍を起こした頼朝公は関東・伊豆を平定し、10月、富士川で平家と一戦を交わるためこの黄瀬川八幡の地に本営を造営しました。兄頼朝の挙兵を知って、奥州よりかけつけた義経とこの境内にて対面し、平家打倒を誓いました。

今も境内西側に兄弟対面時に座った石があり、頼朝自ら植えたとされる「ねじり柿」があります。

八幡神社或いは対面石神社とも言われています。

 

対面石神社大鳥居
 


大鳥居から境内まで約200mの参道があって、桜が植えられています。桜満開の景観はすばらしいです。
 


中鳥居



境内図

対面石神社(八幡)
静岡県駿東郡清水町八幡39(三島駅から約2.5K)




本殿






本殿左側に対面石があります



奥が頼朝が座った石、手前が義経が座った石






頼朝が植えた渋柿の木

 

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白旗社
頼朝公が祀られています

 

富士川の戦い

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平家軍が富士川の戦合いに出発した場所
兵庫県神戸市兵庫区下祗園町24

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平清盛の別荘雪見御所が西にあります
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2021.06.03

義経 打倒平家4 源内塚

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(げんないづか)


1159(平治元)年、平治の乱で破れた頼朝(当時:13歳)は、東国に逃れようとして守山宿に入った時、 源内兵衛真弘が落人である頼朝の首を獲ろうと襲いかかりましたが、頼朝は刀で切り殺しました。
源内を憐れんだ村人が塚をつくって埋葬したのがこの首塚です。

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所在地:滋賀県守山市守山2丁目 (地図)


 



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義経 打倒平家3 義経宿

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義経は、1174年(承安4年3月)に京都鞍馬山より奥州に向かう途中、近江の鏡の宿(滋賀県竜王町)に着いた。
一行は、宿駅の長の宿であった「白木屋」に泊まりました。
そして、烏帽子を冠して元服し源九郎義経となりました。

  
義経宿泊の白木屋の跡
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鏡宿周辺地図
平安時代は東山道、江戸時代は中山道と言われた。
宿場町として栄えてきました、現在でもその雰囲気が残っています。

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所在地:滋賀県竜王町 (地図)


 本陣跡

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真照寺
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鏡宿として栄えた 鏡口(中山道)

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