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2018年8月

2018.08.31

京都 高瀬川沿い史跡4 頼山陽書斎

木戸邸を約300mほど北に行ったところに頼山陽が書斎として使った建物があります。

頼山陽山水処(地図19)
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頼山陽は、大阪出身の江戸時代後期の学者で、「日本外史」「日本政記」「通譲」の三大著作をここで、完成させました。日本外史は、幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。(1832年死去 51歳)
詩吟・剣舞でも馴染み深い「鞭声粛粛夜河を過る~」で始まる川中島の戦い描いた漢詩『題不識庵撃機山図』の作者としても有名です。

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山紫水明處(さんしすいめいしょ)
晩年住んでいたところで鴨川を隔てて、東山三十六峰を一望にできます。
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川中島の戦いで上杉謙信が武田信玄を攻めた時の状況を歌った詩です。
鞭声粛粛夜過河
暁見千兵擁大牙
遺恨十年磨一剣
流星光底逸長蛇


手前の家が山紫水明處がある家です。
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2018.08.17

京都 高瀬川沿い史跡3 木戸・幾松隠れ家跡

高瀬川沿いにある明治維新関連の史跡を北から南に紹介しています。

前回に続いて木戸孝允そして恋人の幾松の記事です。

桂小五郎といった長州藩士時代、芸者だった幾松と親しくなり、長州藩屋敷の近くの幾松の寓居に住んでいました。

木戸・幾松の隠れ家(4)
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桂小五郎・幾松寓居跡
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ビルの裏側に寓居だった建物が残っています。
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料理屋さんになっています
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幾松と桂小五郎
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木戸孝允雅号松菊の由来(クリック拡大)
木戸は、中国の詩人:陶淵明(とうえんめい)を尊敬しており、彼の詩の中の「帰去来の辞」の一節から木戸の屋号「松菊」をつけました。
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桂と幾松が住んでいた部屋
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桂が新選組に追われた時に幾松がこの長持ちの中に桂を隠しました
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寓居は、料理屋さんになっています
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幾松は、木戸と結婚して松子となり、木戸が亡くなると剃髪して京都に住みました。44歳で亡くなりました

護国神社にある木戸・松子の墓
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(クリック拡大)
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2018.08.13

京都 高瀬川沿い史跡2 木戸孝允宅

高瀬川沿いにある明治維新関連の史跡を北から南に紹介しています。

 

今回は、木戸孝允(きどたかよし)が住んでいた場所です。(地図1、2、17)

木戸孝允は、長州藩士で尊王攘夷、倒幕運動の指導的役割をはたしました。

桂小五郎と名乗っていたのは幕末ころで、明治になってから木戸孝允を名乗っていたようです。

高瀬川沿い史跡地図
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1 桂小五郎銅像
2 長州藩邸
17 木戸孝允の住居

長州藩邸横にある桂小五郎銅像Photo


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長州藩邸跡
京都ホテルが建っています
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桂小五郎銅像より北に上がったところ(地図:17)に桂が明治以降住んでいた場所があります。

木戸孝允宅
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こじんまりとした建物で、茶室として使われていたのではと考えられています。

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ここは、公家五摂家の近衛家の下屋敷で木戸が譲り受け邸宅にしました。庭の東側には、鴨川や東山の山並みが広がっていました。

元木戸孝允宅(旅館いしちょう)
こちらが母屋で「木戸孝允旧跡」の碑があります
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「明治天皇行幸所木戸邸」の碑が建っています。
木戸は、1877(明治10)年にこの家で亡くなりました(享年44歳)。明治天皇が木戸の病気見舞いに訪ねられた石碑です。

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木戸邸の横にある建物で現在は、京都職員会館「かもがわ」として使われています。



達磨堂
木戸邸の隣にある建物で、息子・忠太郎(養子)氏のコレクションの達磨を収納されています。
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下村崋山筆
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2018.08.06

京都 高瀬川沿い史跡 1 川由来 角倉了以

京都の高瀬川沿いには、明治維新に関係した人物の史跡が沢山あります。今回からは、そんな史跡を紹介していきます。

高瀬川は、江戸時代初期に角倉了以(すみくらりょうい)によって開通され、中京区上樵木町を起点として京都と大阪の交易に寄与しました。

 

高瀬川の江戸時代初期(17世紀)の頃は、木材、練炭が高瀬舟に積まれて集まり、川沿いには、材木問屋、材木商の店、倉庫が立ち並びました。そこからこの辺りを「木屋町(きやまち)」と呼ばれました。

 

江戸中期(18世紀)には、人の往来が増え、料理屋、旅館、酒屋などの店が増えました。

 

幕末(19世紀)には、この辺りは繁華街になり、勤王志士の密会場所となり、坂本龍馬や桂小五郎などの寓居があり史跡が建っています。

 

高瀬川沿い地図
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18:一の舟入が高瀬川の起点です。
10:七の舟入
舟入とは、船の荷物の積み下ろしや方向転換を行う場所。二条から四条の間に9カ所作られていた。


高瀬川について(クリック拡大)
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一の舟入(地図18)
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高瀬川は、水深が浅いことから船底が平らな船が造られました。


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舟入の 灯影に明くる 春の雪





七の舟入(地図10)
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角倉了以像(地図16の辺り)
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鴨川から水を引き、伏見・二条間をつなぐ高瀬川を施工した嵯峨の豪商



角倉了以別邸
中京区木屋町通二条下る東側
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現在は、和食がんご寿司店になっています。
以前には、長州藩軍人:山形有朋の住居
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森鴎外の短編小説に「高瀬舟」があります。
京都の罪人を遠島に送るために高瀬川を下る舟に、病気の弟を殺した喜助という男が乗せられた。護送役の同心である羽田庄兵衛は、喜助がいかにも晴れやかな顔をしている事を不審に思い、訳を尋ねます。 苦しがる弟を殺すのは罪なのかと安楽死ともう一つのテーマーについて書かれています。

 


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