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2018.06.17

京都 高瀬川沿い史跡 龍馬、慎太郎遭難の地 近江屋

1867(慶応3)年11月9日(新暦)に、二条城にて将軍徳川慶喜は、政権を天皇に返上することを決め、大政奉還がなされました。

 

12月10日(新暦)、近江屋に居た坂本龍馬を中岡慎太郎が訪ねました。

 

そこへ、十津川郷士を名乗った男が龍馬を訪ねてきました。

 

対応した藤吉は後ろから切りつけられ

藤吉「ぎゃぁ!!!」

 

龍馬「ほたえなぁ!」 (土佐弁:騒ぐな)

 

刺客は階段を駆け上がり
「こなくそ!!」
(四国の方言でこの野郎)
と叫びながら龍馬に切りかかり額に一太刀・・・

 

慎太郎も切られるも援けを求めました。

龍馬は、その場で絶命。享年:33歳
慎太郎は、2日後に死亡。享年:30歳



龍馬、慎太郎&藤吉の墓は
  京都霊山護国神社墓地にあります。

近江屋、二条城地図
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近江屋(醤油屋)
中京区河原町通り四条上る
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坂本龍馬
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(クリック拡大)
Photo


四条河原町交差点
左に曲がると近江屋 正面右:南座
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二条城
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大広間で大政奉還が決まりました
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二の丸公園
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「誰が犯人???」

龍馬、慎太郎暗殺者は誰かとなると色々な説があって、当時、京都の町をわがもの顔で闊歩して志士を恐怖におとしいれていた新選組も疑われていますが、通説になっているのが「見回り組(幕府の京都治安部隊) 佐々木只三郎」です。

しかし、これも確証はありません。他には、薩摩藩説(西郷隆盛)、紀州藩説(いろは丸事件)、会津藩説(松平容保)などがあります。

土佐藩説は捨てがたいです。
●「こなくそ!!」は四国の方言
●後藤象二郎などの土佐藩上士たちは、郷士の龍馬、慎太郎などの活躍をよく思っていなかった、
●土佐藩は龍馬の情報を知る立場にあった
●土佐藩邸は、近江屋の近くにあるが、助けにいってない
案外、近くの仲間と思っていた者の犯行である可能性は高いです。

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コメント

しずかさん
お盆休みにかかわらず、訪問とコメントありがとうございました。

記事について、おほめにいただきありがとう
ございました。

龍馬の最後について調べた結果の記事です。
龍馬を暗殺した犯人、逃げ切っていましたが、
その人も龍馬に会っているでしょう。
龍馬は心の大きい人だから、許しているでしょう。

頭の回転が悪く、ここまでまとめるのに
数日かかりました。

非常にうまくまとめられていますね。
感嘆!
私には繋がりのある記事が書けません(..;)

この記事もぜひ大河ブログへ転載してくださいね!

めりいさん
訪問とコメントありがとうございました。

背景が変わってくるのでいつの写真かと思います。
池田屋さんも以前は、コンビニでした。

龍馬暗殺者、土佐藩説を採用しました。
めりいさんは、誰が犯人だと思われますか。

共同ブログアップその時がきたら載せます、
しかし、まさか龍馬暗殺スルーではないでしょうね。

近江屋さんの場所は、今はかっぱ寿司になっているのですね。
石碑は同じでも、バックの様子が変わってくるので、昔の写真はどんどん古くなっています( 一一)

ラメールさん、この写真を大河ドラマブログでもアップしてくださいね。

うらやましいですね。

大阪が震災で東に行く道は大渋滞でした。

この辺りは、有給とらなくても休みの会社多いようです。

33歳~~~若すぎる~~!!

今日は有給とって、彼氏と遠出してきますね!

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