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2018年6月

2018.06.22

龍馬,慎太郎墓 護国神社

龍馬、慎太郎、藤吉の葬儀は、近江屋で行われ、霊山護国神社墓地に埋葬されました。

護国神社墓地の龍馬、慎太郎、藤吉の墓
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坂本龍馬が襲撃を受けた様子が詳しく記載されています。
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龍馬銅像
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護国神社墓地には、志士の墓が多数あります

木戸孝允(たかよし)と磯松(いくまつ)の墓 
長州藩外交担当
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「西郷よ、もうたいていにせぬか。」
の言葉を残して病死 享年:45歳



高杉晋作と長州藩士の墓
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大村益次郎(ますじろう)
長州藩士 軍事総責任者
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吉村寅太郎と天誅組の墓
土佐藩士 尊王攘夷派
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孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるよう天誅組を組織する。日本で初めて倒幕を掲げて戦った。享年:27歳



墓石が整列されて並んでいます
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霊山護国神社
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京都霊山護国神社地図

 

2018.06.18

キッス

キッス
大型船がすれ違います。

2018.06.17

京都 高瀬川沿い史跡 龍馬、慎太郎遭難の地 近江屋

1867(慶応3)年11月9日(新暦)に、二条城にて将軍徳川慶喜は、政権を天皇に返上することを決め、大政奉還がなされました。

 

12月10日(新暦)、近江屋に居た坂本龍馬を中岡慎太郎が訪ねました。

 

そこへ、十津川郷士を名乗った男が龍馬を訪ねてきました。

 

対応した藤吉は後ろから切りつけられ

藤吉「ぎゃぁ!!!」

 

龍馬「ほたえなぁ!」 (土佐弁:騒ぐな)

 

刺客は階段を駆け上がり
「こなくそ!!」
(四国の方言でこの野郎)
と叫びながら龍馬に切りかかり額に一太刀・・・

 

慎太郎も切られるも援けを求めました。

龍馬は、その場で絶命。享年:33歳
慎太郎は、2日後に死亡。享年:30歳



龍馬、慎太郎&藤吉の墓は
  京都霊山護国神社墓地にあります。

近江屋、二条城地図
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近江屋(醤油屋)
中京区河原町通り四条上る
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坂本龍馬
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(クリック拡大)
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四条河原町交差点
左に曲がると近江屋 正面右:南座
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二条城
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大広間で大政奉還が決まりました
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二の丸公園
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「誰が犯人???」

龍馬、慎太郎暗殺者は誰かとなると色々な説があって、当時、京都の町をわがもの顔で闊歩して志士を恐怖におとしいれていた新選組も疑われていますが、通説になっているのが「見回り組(幕府の京都治安部隊) 佐々木只三郎」です。

しかし、これも確証はありません。他には、薩摩藩説(西郷隆盛)、紀州藩説(いろは丸事件)、会津藩説(松平容保)などがあります。

土佐藩説は捨てがたいです。
●「こなくそ!!」は四国の方言
●後藤象二郎などの土佐藩上士たちは、郷士の龍馬、慎太郎などの活躍をよく思っていなかった、
●土佐藩は龍馬の情報を知る立場にあった
●土佐藩邸は、近江屋の近くにあるが、助けにいってない
案外、近くの仲間と思っていた者の犯行である可能性は高いです。

2018.06.09

京都 高瀬川沿い史跡 中岡慎太郎の寓居 菊屋

中岡慎太郎は、禁門の変に参加、そして、坂本龍馬と薩長同盟の成立に奔走し、武力による倒幕を考えていました。

1864(元治元)年12月10日(新暦)、坂本龍馬が居た近江屋を訪問中に何者かに襲撃され、龍馬は即死、慎太郎は2日間生き延び、暗殺犯について語っています。享年:30歳

 

 中岡慎太郎が住んでいた土佐藩御用達書林菊屋(書店)は、近江屋と通りを隔てた向かいにありました。

菊屋地図
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菊屋跡
中京区河原町四条上る米屋町382
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   中岡慎太郎 碑と像





現在は抹茶館(喫茶店)になっています
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四条河原町交差点左に行ったところに中岡慎太郎寓居跡の碑があります。(正面右に南座があります)
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2018.06.06

京都 高瀬川沿い史跡 坂本竜馬の住家 酢屋

池田屋のすぐ近くに坂本龍馬が住んでいた場所があります。当時材木商を営んでいた「酢屋(すや)」です。

  

亡くなる少し前に、危険を感じた竜馬は、近くの「近江屋」に移りましたが、そこで襲われ亡くなりました。(享年:33歳)



酢屋地図

中京区河原町三条下る一筋目
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酢屋
竜馬は2階に住んでおり、海援隊の本部もありました。
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現在も子孫の方が住んでおられて創作木工芸品店を営業しておられ、2階は「ギャラリ-龍馬」となっています。
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ここには、海援隊の隊員も住んでいました。
(クリック拡大)
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2018.06.05

京都 高瀬川沿い史跡 新選組と池田屋騒動跡

新選組が世間で認められるようになったのが池田屋騒動です。

 

1864(元治元)年6月(旧暦)、倒幕派がクーデターを起こす計画を知った新選組は三条小橋西詰北側の旅館「池田屋(長州定宿)」で密議中の長州、土佐、肥後各藩の尊王攘夷派志士約20名を、近藤勇率いる新選組10名で襲撃し、倒幕派7名を惨殺した。この事件で倒幕が1年遅れたとも言われています。

  

新選組は、1863(文久3)年に東海道53次の終点であるここ三条大橋、小橋を渡り、池田屋の前を通って壬生屯所に向かいました。それより1年数か月後にこの事件を起こしました。
(参考資料:池田屋説明板より)

 

池田屋地図
中京区三条通川原町車入
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池田屋
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ビルの谷間に池田屋跡、右に行ったところが三条小橋西詰
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現在は新選組の雰囲気のある居酒屋です。
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倒幕派死傷者氏名(クリック拡大)
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2018.06.02

夏
神戸市文化ホール公園

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