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明石市立天文科学館
日本標準時子午線の真上に建設し、1960(昭和35)年6月10日(時の記念日)に開館しました。
兵庫県明石市人丸町2-6
井伊谷を中心に直虎史跡を紹介してきましたが、浜松で徳川家康を紹介しないわけにはいきませんので、浜松城と引間城を紹介します。
引間城
この城は15世紀頃に築城されており、16世紀に入って今川氏の配下となる。1568年(永禄11年)に今川方の拠点であった引間城(ひくまじょう)を攻め落とした徳川家康は、城を大幅に拡大して浜松城と改称しました。現在は、この地に徳川家康を祀る浜松東照宮が建てられています。江戸時代には、東照宮付近に古城として記されています。
右 1551年、初めて武家奉公がかなった頃(16歳)の秀吉公
左 1573年 三方ヶ原合戦時の家康公の雄姿(31歳)
浜松城地図
明石市役所近くにあります
直虎史跡巡りは、今回が最後です。
直虎という歴史上まったくの無名の人物が大河の主役になるのに不安がありましたが、今回の直虎史跡巡りで、多くの史跡が残っており、大切に保存されているのに驚きました。ドラマでは、龍雲丸という面白い役も登場して、これからの展開がますます楽しみです。
浜松市は、今年の大河ドラマの直虎で大いに盛り上がっていますが、それに便乗して、歴史上では、直虎よりはるかに大きな存在ですが、もうひとつ人気のない徳川家康のPRも同時にやっています。
今回は、大河ドラマ直虎の「大河ドラマ館」と直虎と家康のPR用の「出世の館」を紹介します。
大河ドラマ館
井伊家の居館内をイメージしたセットや、出演者の衣装や小道具などが展示されるほか、パノラマシアター、浜松でのロケ地や直虎ゆかりの地を紹介するコーナーなどがあります。
ドラマ館入り口です。入り口右側で写真撮影ができます。
館内でここだけは、写真撮影OKです。
ドラマのシンボルでもある井戸です
浜松市中区旭町37(JR浜松駅より3分) 入場は無料
直虎が活躍した井伊谷の中心部の地図です
東西約900m、南北約1000mの範囲内に直虎関連の史跡があります。
直虎は、この範囲内で活躍しました。
(直虎パンフレットより)
開館記念特別展「戦国の井伊谷」やジオラマ「井伊谷戦国絵巻」を開催中です
井伊谷城
宗良親王が戦の最中に足を負傷し落馬しましたが、怪我はなく代わりに護持仏の片足が血に染まったという伝説があります。
大河ドラマ「おんな城主 直虎」は、歴史的にはほとんど知られていない人物であり出来事ですが、今回、舞台である静岡県浜松市井伊谷に行き、直虎および関連の史跡を訪ねた結果、けっこう沢山の史跡が残っていて、毎回のように出てくる井戸や龍潭寺などもその史跡を見てきたので、そこからストーリーを想像して、ドラマを本当にあった話のように感じながら見ています。
今回は、直虎の菩提寺:妙雲寺と井伊家の氏神である渭伊神社を紹介します。
妙雲寺
もとは自耕庵と言われていましたが、直虎がこのお寺に葬られ院号が「妙雲院殿月泉祐園禅定尼」であるところから妙雲寺と改められました。
龍潭寺には、井伊家と家臣のお墓があります。
近藤康用以外に鈴木重時、菅沼忠久の墓があります。
何故、直虎は、幼少時、「次郎法師」と名乗ったか
1544(天文13)年、直虎(幼名不明)の許嫁である従弟の亀之丞の父:直満が今川義元に謀反の疑いをかけられて殺され、亀之丞も命を狙われたため、信濃(長野県)の松源寺に身を隠しました。直虎も身を守るために井伊家の菩提寺である龍潭寺(りょうたんじ)の第2世住職:南渓和尚(俳優:小林薫)のもとで出家を決意し、名前を井伊家跡継ぎの証である次郎をつけ「次郎法師」と名乗りました。
※1730年、龍潭寺9代目住職が記した井伊家の歴史書に「次郎法師は、女であるが、井伊家を継ぐ家に生まれたので、跡継ぎの名と僧侶の名をかねて、次郎法師という」といったことが記されています。
龍潭寺は、NO4の紀行で紹介されています。
山門
仁王門
丈六の釈迦牟尼佛(じょうろくのしゃかむにぶつ)
宗良親王ご位牌
今年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」は、歴史的にほとんど知られていない人ですので、ドラマを見ていて、本当にこれに近い人物や出来事があったのか疑問に思っていたので、現地の浜松市井伊谷を訪ねてみました。
井伊氏初代の井伊共保(ともやす)公出生の井戸
1010(寛弘7)年に、井戸のそばに捨てられていた男の子が井伊家初代の共保公でした。後に遠江国司藤原共資の養子となり藤原姓を名乗り、井伊谷に館を構え、名字を「井伊」と改めました。
浜松市井伊谷に行くと井伊氏、直虎に関する史跡が多く保存されていました。
宗良親王は、南北朝時代(1336~1392)にこの井伊谷を本拠に50余年の間、吉野朝方のためにご活躍されました。
また、親王は、幼少の頃より和歌に秀で、多くの和歌を詠まれ、歌集も編纂されています。1385(元中2)年にこの地を訪ねられ、同年、73才でこの地で亡くなられたと伝えられています。
本殿