粉河寺と桜(和歌山県)
粉河寺は、奈良時代末の770(宝亀元)年の開創です。
1585(天正13)年に豊臣秀吉によって多くの堂塔伽藍、寺宝が焼かれました。
江戸時代になって、紀州徳川家の庇護と信徒の寄進によって諸堂が完成しました。
当寺所有の「粉河寺縁起」(国宝)には、開創について二つの説話が語られています。
1)紀伊の国の猟師:大伴孔子古が山中で光るものをみつけ、そこに庵を建てました。それが粉河寺のはじまりです。その家に童行者が訪ねてきて泊めてくれと言いました。泊めてもらったお礼にと7日かけて千手観音の像を刻んでおいて行きました。孔子古は、その金色の像を見て、観音を信仰するようになりました。
2)河内国の長者:佐太夫の娘は重い病気にかかっていました。そこへ童行者が先手千眼阿羅尼を称えて祈祷すると娘の病は全快しました。お礼の品を差し出すが受け取らず、「私は、紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去りました。後に長者一家が那賀郡を訪ねると小さな庵に先手観音像が立っていましたので、あの行者が観音の化身であったことが分かりその場で出家して粉河寺の繁栄に尽くしました。
粉河寺はについては、清少納言の枕草子や多くの本に記述があります。それから推測すると平安時代中期・10世紀には観音霊場として有名であったことがわかります。
大門
大門
仁王像
大門裏側
阿弥陀如来坐像
鉦鉦(かねがね)きこゆ 秋の樹の間に
芭蕉句碑と丈六堂
「ひとつぬきて うしろのおいぬ ころもがえ」
湯浅桜と六角堂
薬師堂
鐘楼と本堂と桜
クスノキ
このクスノキについて、寺伝によれば770年頃の記述があります
たのもしの宮(産土神社)
芭蕉句碑と丈六堂
「ひとつぬきて うしろのおいぬ ころもがえ」
湯浅桜と六角堂
薬師堂
鐘楼と本堂と桜
クスノキ
このクスノキについて、寺伝によれば770年頃の記述があります
たのもしの宮(産土神社)
桃山時代の石庭
御神木
和歌山県下3番目の大木で、紀伊風土記に「境内に噂の大木あり」と書かれています。
和歌山県紀の川市粉河2787