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2016年11月

2016.11.26

石田三成史跡 6/6 長浜城

1570(元亀元)年の浅井・朝倉軍との信長との決戦:姉川の戦いに勝利した信長は、浅井氏の居城:小谷城を秀吉に与えました。秀吉は、1575(天正3)年、交通の便のよい琵琶湖の近く今浜に城を完成させ、長浜と命名しました。

三成は、秀吉に才能を見出され、長浜城に登城しました。

豊(ほう)公園の場所に長浜城があります。
ここから東(右)へ約5k行くと三成の家があります。


長浜城
城


天守閣から見た景色

浅井長政の居城:小谷城はすぐちかくです。



賤ヶ岳


上の写真の左側の景色
景色



城下町長浜

長浜城の城下町の中を北国街道が通っています

北国街道


北国街道には、武者隠れが造られていて戦時に備えた対策がとられてます。家がギザギザ状に建てられています。
武者隠れ通り


武者が隠れるように家が引っ込んでいます。
武者


武者板


秀吉は10名の町衆に町を治めさせました。
その中の筆頭格の安藤家
安藤家


安藤家板


街中には、古い建物が残っています
通り


大通寺山門
長浜城にあった大通寺を1649年にこの地に移されました。この山門は、1808年に建築が始まり1840年に完成しました。
大通寺


大通板


本堂
本堂


広間付玄関
この建物は、1760年に建てられました。
玄関


玄関板


門前通り
大通寺門前


行列のできる有名な親子丼ぶりの店:鳥喜多
鳥喜多


うまそう!!!  ¥580円
鳥丼



石田三成物語も今回が最終です。
三成を表す言葉に
「三成には過ぎた物が二つある
それは、島左近と佐和山城」です。


島左近
石高4万石の三成がその半分を与えて召し抱えた武将です
島


佐和山城
1591年、三成は19万石の佐和山城主となり、天守閣を建てました。関ヶ原後、徳川軍が入りましたが、内装は質素で財宝などほとんどありませんでした。
佐和山城


三成に過ぎた二つの話は、三成を軽んじたようにみえますが金銭に執着せず、真心をもって豊臣家に仕えた義に熱い武将であったことを表しています。司馬遼太郎は、徳川家康に、「三成は素晴らしい武将である。豊臣恩顧の大名供が恩賞につられ、どんどん裏切るなか、ただ一人亡き豊太閤の大恩に報じんとワシに向かって来た。三成こそ真の武士である」と言わせています。

2016.11.24

石田三成史跡5/6 供養塔

秀吉の死後、多くの大名は、徳川になびいていったが、三成は、秀吉の恩義を忘れることなく、豊臣の後継者:秀頼を守って関ヶ原で、徳川家康と天下分け目の一線を交えるが、小早川秀秋の裏切りで敗れました。そして、捕えられ京都四条河原で処刑されました。享年41歳

徳川幕府の追及を逃れるため石田町には、石田姓は一人もいなくなり、石田一族の墓は破壊され、村人によって埋められましたが、1973(昭和48)年に、八幡神社東側に、掘り起された石田一族の墓を集めて「石田三成公一族及家臣供養塔」を建立しました。

 

三成公供養塔&八幡神社

(滋賀県長浜市石田町548)

八幡神社は石田会館の右隣です。八幡神社は、近くの町にもありますので、間違いのないようにしてください。

 

石田地図

 

供養塔碑

 

石田三成一族及家臣供養塔

供養塔

 

三成辞世の歌

辞世の歌

「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と

    ともに消えゆく 我が身なりけり」
筑摩江にともるかがり火が消えるように、自分も消えていくのだな・

※ 筑摩とは、現米原市の地名。  

※ 芦(琵琶湖のヨシ)

 

 

自筆歌

左:石田三成公自筆の歌
  残紅葉 散り残る紅葉は ことにいとおしき
  秋の名残は こればかりぞと
右:残照の空に あづけし柿一つ

 

板




奥の石碑あたりから石田一族の墓石が出土しました。

石棺の蓋(300m離れた川にかけられていた橋で石棺の一部だったことがわかりました)

墓石出土

 

石棺板

 

八幡神社の中に石田神社があってそこに供養塔はあります。

石田神社

 

案内板がありますから分かりやすいです

案内

 

道路から見ると供養塔・八幡神社は、木で覆われています

場所

 

八幡神社(三成供養塔はここにあります)

八幡神社

 

八幡神社2

 

八幡境内

2016.11.06

石田三成史跡4/6 観音寺

石田三成物語3で、三成は修業していた観音寺で、秀吉に会って、三献の茶でその才能を認められた話を書きましたが、今回は、その観音寺についての記事です。

三成人気が出ていますが、それは、大河ドラマ「真田丸」で石田三成を山本耕史(こうじ)さんが演じておられ、なかなかの好演だからです。そして、演じる心構えを次のように言っておられます。

『三成のイメージは、豊臣政権を支えるために、聡明で冷静に仕事を進めていくイメージですので、端明、明閣で、余計なことは言わず、余計な仕草をしない感情のないロボットのような感じを出すようにしていますが、実は、自分の才能を見つけてくれた秀吉のために、そして、秀吉の死後は、豊臣政権の復権のために最後まで生き抜いていく熱い男を演じ切って行きたい』と言っておられます。

 



三成ポスター

 

佐和山城

1591年、三成31歳の時、佐和山城19万石(近江北部)の大名となった。



観音寺地図

地図

 

板

寺は、770年ころ、伊吹山で創立されました。1347(貞和3)年に現在地に移されました。

鎌倉、室町時代は、この地の領主であった佐々木氏、戦国期には、浅井家、長浜城主時代の羽柴秀吉、江戸時代には、彦根藩井伊氏の所領として、保護されてきました。

 

惣門

惣門

 

惣門を入ると本堂まで一本道です。
左に行くと秀吉に献じたお茶を点てた水が湧き出ている井戸があります。

入口

 

道路

 

階段

 

本堂
本堂

 

薬師堂

 

薬師堂
薬師堂

 

鐘楼
鐘楼

 

惣門の前から、伊吹山が見えます。
伊吹山

 

紫陽花

 

観音寺地図

2016.11.03

石田三成史跡3/6 秀吉との出会い 

三成の少年期は、近くで織田信長と浅井長政が激突した姉川合戦〔1570(元亀元)年】の戦場の近くに住んでいたため、多感な少年佐吉(三成幼年期名)に大きな影響を与えたと思われます。三成は、家から東へ1.5Kいったところの観音寺へ学問修行のために預けられていました。

そして、ここで三成の人生を決定づけた秀吉と出会います。

観音寺(三成屋敷:石田会館は左へすぐ)

 

観音寺門(三成が秀吉に出会ったお寺)

観音寺

お茶板

三成展(観音寺境内)

資料館

水の文字を描くことで火災から建物を守るおまじないです。

水

三成の三碗三温のお茶
鷹狩の途中、観音寺に立ち寄った
秀吉は「長浜の秀吉じゃ、お茶を一服所望したい」
居合わせた三成は、ぬるめのお茶を大茶椀になみなみと入れて差し出した。
二杯目は中くらいの茶碗でやや熱めのお茶を、
三杯目は、先にお菓子を出し、茶は小さい茶碗に熱いお茶を入れて差し出しました。
秀吉は、三成のその対応に感嘆して、小姓として召し抱えました。

三椀

観音寺境内に水汲みの井戸があります。

井戸案内

お茶を献じた水汲みの井戸

お茶井戸

お茶板

井戸の横にある池

池

三成展会場

資料室

三成と大谷吉嗣

三成チョット格好よすぎですが。

顔だし

長浜駅前の三献の茶の銅像

長浜駅

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