石田三成史跡 6/6 長浜城
1570(元亀元)年の浅井・朝倉軍との信長との決戦:姉川の戦いに勝利した信長は、浅井氏の居城:小谷城を秀吉に与えました。秀吉は、1575(天正3)年、交通の便のよい琵琶湖の近く今浜に城を完成させ、長浜と命名しました。
三成は、秀吉に才能を見出され、長浜城に登城しました。
浅井長政の居城:小谷城はすぐちかくです。
長浜城の城下町の中を北国街道が通っています
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1570(元亀元)年の浅井・朝倉軍との信長との決戦:姉川の戦いに勝利した信長は、浅井氏の居城:小谷城を秀吉に与えました。秀吉は、1575(天正3)年、交通の便のよい琵琶湖の近く今浜に城を完成させ、長浜と命名しました。
三成は、秀吉に才能を見出され、長浜城に登城しました。
浅井長政の居城:小谷城はすぐちかくです。
長浜城の城下町の中を北国街道が通っています
秀吉の死後、多くの大名は、徳川になびいていったが、三成は、秀吉の恩義を忘れることなく、豊臣の後継者:秀頼を守って関ヶ原で、徳川家康と天下分け目の一線を交えるが、小早川秀秋の裏切りで敗れました。そして、捕えられ京都四条河原で処刑されました。享年41歳
徳川幕府の追及を逃れるため石田町には、石田姓は一人もいなくなり、石田一族の墓は破壊され、村人によって埋められましたが、1973(昭和48)年に、八幡神社東側に、掘り起された石田一族の墓を集めて「石田三成公一族及家臣供養塔」を建立しました。
三成公供養塔&八幡神社
(滋賀県長浜市石田町548)
八幡神社は石田会館の右隣です。八幡神社は、近くの町にもありますので、間違いのないようにしてください。
石田三成一族及家臣供養塔
「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
ともに消えゆく 我が身なりけり」
筑摩江にともるかがり火が消えるように、自分も消えていくのだな・
※ 筑摩とは、現米原市の地名。
※ 芦(琵琶湖のヨシ)
奥の石碑あたりから石田一族の墓石が出土しました。
石棺の蓋(300m離れた川にかけられていた橋で石棺の一部だったことがわかりました)
八幡神社(三成供養塔はここにあります)
石田三成物語3で、三成は修業していた観音寺で、秀吉に会って、三献の茶でその才能を認められた話を書きましたが、今回は、その観音寺についての記事です。
三成人気が出ていますが、それは、大河ドラマ「真田丸」で石田三成を山本耕史(こうじ)さんが演じておられ、なかなかの好演だからです。そして、演じる心構えを次のように言っておられます。
『三成のイメージは、豊臣政権を支えるために、聡明で冷静に仕事を進めていくイメージですので、端明、明閣で、余計なことは言わず、余計な仕草をしない感情のないロボットのような感じを出すようにしていますが、実は、自分の才能を見つけてくれた秀吉のために、そして、秀吉の死後は、豊臣政権の復権のために最後まで生き抜いていく熱い男を演じ切って行きたい』と言っておられます。
1591年、三成31歳の時、佐和山城19万石(近江北部)の大名となった。
観音寺地図
寺は、770年ころ、伊吹山で創立されました。1347(貞和3)年に現在地に移されました。
鎌倉、室町時代は、この地の領主であった佐々木氏、戦国期には、浅井家、長浜城主時代の羽柴秀吉、江戸時代には、彦根藩井伊氏の所領として、保護されてきました。
惣門
惣門を入ると本堂まで一本道です。
左に行くと秀吉に献じたお茶を点てた水が湧き出ている井戸があります。
三成の少年期は、近くで織田信長と浅井長政が激突した姉川合戦〔1570(元亀元)年】の戦場の近くに住んでいたため、多感な少年佐吉(三成幼年期名)に大きな影響を与えたと思われます。三成は、家から東へ1.5Kいったところの観音寺へ学問修行のために預けられていました。
そして、ここで三成の人生を決定づけた秀吉と出会います。
観音寺(三成屋敷:石田会館は左へすぐ)
観音寺境内に水汲みの井戸があります。
お茶を献じた水汲みの井戸
井戸の横にある池
三成と大谷吉嗣