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2016.10.25

幕末の神戸の砲台

1863(文久3)年、将軍徳川家茂による大坂湾の海防状況視察の際に、外国からの攻撃を防御するために、幕府は、海岸線に防衛ラインを築く必要性を感じ、勝海舟にその構築を命じました。その一つが神戸から明石海峡に築いた砲台であり、海軍操練所の設立です。
この年は、長州藩が米商船を砲撃、高杉晋作奇兵隊結成、七郷長州落ちなどの大事件が次々と起こった年です。

和田岬砲台

Photo



1864年(元治元年)に勝海舟の設計、 工事は嘉納治朗(講道館柔道創設者:  嘉納治五郎の父)が行いました。

外は石造り、内部は木造2階建の構造です。
      高さ:11.5M、直径14M      2階に11門、屋上に16門の大砲を
装備する予定でしたが、実際には、 備え付けられることはありませんでした。

他に西宮、今津、舞子に設置され瀬戸内海の防備に備えました。

(参考資料:三菱重工業(株)パンフレット

 

 

場所:神戸市兵庫区和田岬町 
     (三菱重工 神戸造船所敷地内)



舞子の砲台

Photo

幕末に外国船の侵攻に備えて、1863(文久3)年に幕府の命を受けて、勝麟太郎(海舟)の指導のもと、明石藩が築造した砲台場です。対岸の淡路島にある徳島藩松帆台場と協力して、明石海峡を通過する外国船を挟み撃ちにしたと考えられます。大きさは東西約70mであったと推察されます。


JR舞子駅南にありますPhoto_2

舞子砲台地図

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コメント

シネマさん
コメントありがとう。

和田岬砲台は、三菱重工業内にあるので、
見学客を整理するために予約制にしていると思います。
見物客がぞろぞろと勝手に工場内に入って来られたら困るのでしょう。

なんで、予約がいるんですか?!

めりいさん
コメントありがとう。

舞子砲台は、いつでも見れますが、和田砲台は、予約がいります。

和田砲台の場所は、清盛のころから、海の重要拠点だったようです。

なかなかここだけ訪ねるのは、時間的に難しいですね。

幕末の史跡である和田岬砲台が、今も保存されているのですね。
神戸には何度も行ってますが、観光地ばかり歩いています。
こういった歴史ゆかりの地も歩いてみたいと思っています。

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