古墳が造られたのは、3~6世紀頃です。
明石海峡大橋北側の神戸市垂水区や明石市には、現在確認されている古墳だけでも500基以上で、未確認のものや、破壊されたものなどをいれると1,000基以上の古墳が あったと推定されています。
弥生時代の末期の3世紀頃から小国家を守る戦士が死亡した時に葬ったのが塚と言われ、4世紀になって小国家の長(おさ)を葬る前方後円墳が築きだされた。
5世紀時代までは、首長や権力者の者が築きましたが、6世紀になると稲作や鉄製の農機で生産があがり、豊かになった民衆が、一家族単位で墳墓を築きました。いずれも直径10m~20mの円墳か小型の前方後円墳です。
≪大歳山(おおとしやま)の縄文遺跡と古墳≫
弥生時代の住居と右に古墳、明石海峡が目の前に見ます。
神戸市垂水区舞子小学校北の高台にあります。
≪ 地 図 ≫
2万年以上前の旧石器から縄文前期(5千年前)の土器などが出土し、
又、弥生時代(2世紀)の土器や住居跡も発掘され、頂上部には
後期古墳時代(6世紀)の前方後円墳も残っています。 実に、2万年以上に及ぶ
人間の足跡をもつ世界でも珍しい『複合遺跡』です。
≪五色塚古墳と小壷古墳(4世紀)≫
JR兵庫県神戸市垂水区 ≪地 図≫、
兵庫県最大の前方後円墳です。
五色塚古墳は全長197m、円筒埴輪が2千個くらい配置されています。
又、封土全体を淡路島のものと思われる卵型の20センチくらいの葺石80万個、
基礎の下段には150万個の川原石で葺いてあります。
明石海峡を通る船からは、驚異を感じさせる巨大建造物で、
貢物を献上させるための権威の象徴でした。
五色塚古墳から見た小壷古墳(直径60m)で、円墳のようですが、
前方後円墳の前方部がけずられたようです。
「日本書紀」には、五色塚古墳について書かれています。
仲哀天皇の王子、カゴサカ王とオシクマ王が、義母神功皇后(伝説上の女帝)に政権を握られるのに腹を立て、朝鮮遠征から帰ってくる皇后を迎え撃とうとして軍船をしたて海上に浮かばせたが、そのままではクーデターがばれるので、 淡路島の五色浜から葺石を運んできて仲哀天皇の墓をこしらえるのだとごまかして造った。
だから、この古墳は、ニセ塚で何も埋葬されていないと書かれている。
現在の研究では、4世紀の明石国造(くにのみやつこ)の墓に間違いないとされている。
≪きつね塚古墳≫
神戸市垂水区狩口台 ≪ 地 図 ≫
直径30mほどの円墳で、盗掘穴を残したまま古墳公園になっています。明石海峡の見えるところに造られましたが、今は、マンションが建って直接見ることは出来ません。
昔は、 戦闘訓練をすることを「狩」と言ったようで、江戸時代には明石藩の
萩野六兵衛砲術指南役がこのあたりで実践射撃訓練をしました。
≪舞子古墳群≫(兵庫県神戸市垂水区舞子陵 ≪ 地 図 ≫)
舞子古墳群は、現在、十数基の古墳が残っていますが、かっては、
100基をこす古墳が存在していました。 これらの古墳は、いつのころからか、 「舞子・石谷の石窟」と呼ばれ、親しまれてきました。
この「石窟」は、西暦500~620年ごろに つくられた横穴式石室を
埋葬施設とした古墳を表現したものです。 舞子古墳群の古墳は、ほとんどが直径15メートル前後の円墳です。
これまでの発掘調査では、この付近から産出する花崗岩を使用して、 石室をつくっていることが分かっています。また、石室の形は、ほとんどが近畿地方では一般的なものですが、市内では、数少ない「T」字形の
横穴式石室も発見されています。
副葬品には、須恵器の壷に人物や動物を模した飾りをつけたものや
金属製の飾り金具のついた武具などの 貴重なものが発見されています。
(平成5年3月 神戸市教育委員会)
≪淡路島の古墳≫
淡路の古墳時代は、あまり見るべきものはありません。発掘されたものは約百基。そのほとんどが、円墳で大きいもので直径20m、多くは7~8m規模です。
≪淳仁天皇陵≫
兵庫県三原郡賀集(かしゅう) ≪ 地 図 ≫
758年天皇の位についた淳仁天皇は、政争に巻き込まれ廃帝として淡路島に流された。島での生活は2年間、自殺したとも殺されたとも伝えられている。
『続日本紀』によれば流されたのは、764年10月のことらしい。
「右兵衛督藤原朝臣蔵下麻呂が配所に衛送して一院に幽す。・・・・・・・・・・・・・・・・・
淡路国をもって大炊の親王(淳仁天皇)に賜う。国内有する所の官物調庸などの類 其の所用に任す。」
≪参考資料≫ 川口 陽之(きよし)氏著 「垂水郷土史」 「赤石のくに」
角田 直美(なおみ)氏著 「淡路島物語」