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2016年10月

2016.10.29

石田三成史跡2/6 石田屋敷(石田会館) 

三成の屋敷跡に、三成の資料を展示、保存した「石田会館」があります。

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会館内の庭に銅像と碑がたっています40_r


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西郷隆盛が詠んだ漢詩
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三成公顕彰歌
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石田会館内では、三成展が開かれています。
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三成肖像画
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1600年、関ヶ原で敗れた三成は、その後、伊吹山から北近江へと逃れましたが、捕捉され、京都の六条河原で打ち首になり、三条大橋のたもとでさらされた後、大徳寺に埋葬されました。


処刑されるときの三成の逸話があります。
三成は警護の人間に喉の乾きを訴え水を所望したのに対し、

警護の武者は
「水は無いが、柿がある。代わりにそれを食せ。」と答えた。

これに対し三成は
「柿は痰の毒であるのでいらない。」と答えた。

それを聞いた警護の武者は嘲笑しながら
「すぐに首を切られるものが、 毒断ちして何になる。」と言った。

三成は、泰然として言いました、
「大志を持つものは、 最期の時まで命を惜しむものだ。」


三成公頭蓋骨

三成の遺骨が、明治40年(1907)、300年ぶりに大徳寺の墓地から、発掘され、頭蓋骨、大腿骨、上腕骨など一体分の骨が出てきました。
これを京都大学の教授が、継ぎ合わせて復元し、頭蓋骨の石膏模型を作りました。
●そこから想像される三成は、
・一見して女性と間違うほど華奢であった。
・顔は当時としては珍しい細面で、頭は前後に出た才槌頭(さいづちあたま)であった。
・鼻は高く隆起し、鼻筋の通った優男タイプであった。

・かなりひどい反っ歯であった。
・身長は、156cm


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三成が真田信之(真田家長男)に送った書状
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三成の居城
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佐和山城地図(滋賀県彦根市)

2016.10.27

石田三成史跡 1/6 出生の地

石田三成は、1560(永禄3)年、長浜市石田町(坂田郡石田村)で石田正継の次男として 生まれた。 幼名は佐吉。父正継は浅井の家臣でした。

石田家屋敷跡(石田会館)

三成屋敷跡
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石田家は、この辺りの豪族で屋敷も石田会館~産湯の井戸辺りの約1町4反(約東京ドームグラウンド部分と同じくらい 約14000㎡)ぐらいあったと言われています。この地域の小字名は、三成の官命をとって「治部」と言って、俗称「ごいで」とも言われています。

小字名治部{ごいで」と書かれています。石田会館内

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屋敷の北側に、産湯の井戸が残っています。

交差点から北へ行き左に曲がるとあります。
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現在は、石田会館になっていますが、石田三成屋敷跡で、このあたりが屋敷の南にあたるようです。
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屋敷跡の一画に治部池があり、奥に治部清水が湧き出ています。(石田会館内)

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現在の石田町の中心の交差点は、石田家の屋敷内で、その碑が建っています。
石田のバス停は、「出会いの広場」になっています。
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三成電燈
三成旗印とお茶を献じるところが描かれています。
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三成の家紋
「大一大万大吉」は、源平合戦の時代に木曾義仲を討ち取った石田次郎為久が使ったものを、三成が気に入って旗印にしました。

これは、「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という三成の考えを表しています。

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交差点は、石田家の屋敷内にあって、東に向かって行き、山を越えると三成が秀吉に会った観音寺があります。
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西を向いており、この先には長浜城があります。
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町の中には三成に関する史跡の案内板が建っていますので分かりやすいです。
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2016.10.25

幕末の神戸の砲台

1863(文久3)年、将軍徳川家茂による大坂湾の海防状況視察の際に、外国からの攻撃を防御するために、幕府は、海岸線に防衛ラインを築く必要性を感じ、勝海舟にその構築を命じました。その一つが神戸から明石海峡に築いた砲台であり、海軍操練所の設立です。
この年は、長州藩が米商船を砲撃、高杉晋作奇兵隊結成、七郷長州落ちなどの大事件が次々と起こった年です。

和田岬砲台

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1864年(元治元年)に勝海舟の設計、 工事は嘉納治朗(講道館柔道創設者:  嘉納治五郎の父)が行いました。

外は石造り、内部は木造2階建の構造です。
      高さ:11.5M、直径14M      2階に11門、屋上に16門の大砲を
装備する予定でしたが、実際には、 備え付けられることはありませんでした。

他に西宮、今津、舞子に設置され瀬戸内海の防備に備えました。

(参考資料:三菱重工業(株)パンフレット

 

 

場所:神戸市兵庫区和田岬町 
     (三菱重工 神戸造船所敷地内)



舞子の砲台

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幕末に外国船の侵攻に備えて、1863(文久3)年に幕府の命を受けて、勝麟太郎(海舟)の指導のもと、明石藩が築造した砲台場です。対岸の淡路島にある徳島藩松帆台場と協力して、明石海峡を通過する外国船を挟み撃ちにしたと考えられます。大きさは東西約70mであったと推察されます。


JR舞子駅南にありますPhoto_2

舞子砲台地図

2016.10.22

明石海峡の見える古墳

古墳が造られたのは、3~6世紀頃です。

明石海峡大橋北側の神戸市垂水区や明石市には、現在確認されている古墳だけでも500基以上で、未確認のものや、破壊されたものなどをいれると1,000基以上の古墳が あったと推定されています。


弥生時代の末期の3世紀頃から小国家を守る戦士が死亡した時に葬ったのが塚と言われ、4世紀になって小国家の長(おさ)を葬る前方後円墳が築きだされた。
 

5世紀時代までは、首長や権力者の者が築きましたが、6世紀になると稲作や鉄製の農機で生産があがり、豊かになった民衆が、一家族単位で墳墓を築きました。いずれも直径10m~20mの円墳か小型の前方後円墳です。

 

 

≪大歳山(おおとしやま)の縄文遺跡と古墳≫

弥生時代の住居と右に古墳、明石海峡が目の前に見ます。
神戸市垂水区舞子小学校北の高台にあります。
≪ 地 図 ≫

  

 
2万年以上前の旧石器から縄文前期(5千年前)の土器などが出土し、
又、弥生時代(2世紀)の土器や住居跡も発掘され、頂上部には
後期古墳時代(6世紀)の前方後円墳も残っています。 実に、2万年以上に及ぶ
人間の足跡をもつ世界でも珍しい『複合遺跡』です。



≪五色塚古墳と小壷古墳(4世紀)≫

  

 JR兵庫県神戸市垂水区  ≪地 図≫
兵庫県最大の前方後円墳です。

五色塚古墳は全長197m、円筒埴輪が2千個くらい
配置されています。
又、封土全体を淡路島のものと思われる卵型の20センチくらいの葺石80万個、
基礎の下段には150万個の川原石で葺いてあります。
明石海峡を通る船からは、驚異を感じさせる巨大建造物で、
貢物を献上させるための権威の象徴でした。

 

五色塚古墳から見た小壷古墳(直径60m)で、円墳のようですが、
前方後円墳の前方部がけずられたようです。 

「日本書紀」には、五色塚古墳について書かれています。
仲哀天皇の王子、カゴサカ王とオシクマ王が、義母神功皇后(伝説上の女帝)に政権を握られるのに腹を立て、朝鮮遠征から帰ってくる皇后を迎え撃とうとして軍船をしたて海上に浮かばせたが、そのままではクーデターがばれるので、 淡路島の五色浜から葺石を運んできて仲哀天皇の墓をこしらえるのだとごまかして造った。
だから、この古墳は、ニセ塚で何も埋葬されていないと書かれている。
現在の研究では、4世紀の明石国造(くにのみやつこ)の墓に間違いないとされている。



≪きつね塚古墳≫

 神戸市垂水区狩口台  ≪ 地 図 ≫

直径30mほどの円墳で、盗掘穴を残したまま古墳公園になっています。明石海峡の見えるところに造られましたが、今は、マンションが建って直接見ることは出来ません。
昔は、 戦闘訓練をすることを「狩」と言ったようで、江戸時代には明石藩の
萩野六兵衛砲術指南役がこのあたりで実践射撃訓練をしました。

  


≪舞子古墳群≫
(兵庫県神戸市垂水区舞子陵  ≪ 地 図 ≫


 舞子古墳群は、現在、十数基の古墳が残っていますが、かっては、
100基をこす古墳が存在していました。 これらの古墳は、いつのころからか、 「舞子・石谷の石窟」と呼ばれ、親しまれてきました。
この「石窟」は、西暦500~620年ごろに つくられた横穴式石室を
埋葬施設とした古墳を表現したものです。   舞子古墳群の古墳は、ほとんどが直径15メートル前後の円墳です。
これまでの発掘調査では、この付近から産出する花崗岩を使用して、  石室をつくっていることが分かっています。また、石室の形は、ほとんどが近畿地方では一般的なものですが、市内では、数少ない「T」字形の
横穴式石室も発見されています。
副葬品には、須恵器の壷に人物や動物を模した飾りをつけたものや
金属製の飾り金具のついた武具などの 貴重なものが発見されています。
(平成5年3月 神戸市教育委員会)
 


≪淡路島の古墳≫

淡路の古墳時代は、あまり見るべきものはありません。発掘されたものは約百基。そのほとんどが、円墳で大きいもので直径20m、多くは7~8m規模です

≪淳仁天皇陵≫

  

 兵庫県三原郡賀集(かしゅう)  ≪ 地 図 ≫

 758年天皇の位についた淳仁天皇は、政争に巻き込まれ廃帝として淡路島に流された。島での生活は2年間、自殺したとも殺されたとも伝えられている。
 『続日本紀』によれば流されたのは、764年10月のことらしい。
「右兵衛督藤原朝臣蔵下麻呂が配所に衛送して一院に幽す。・・・・・・・・・・・・・・・・・
淡路国をもって大炊の親王(淳仁天皇)に賜う。国内有する所の官物調庸などの類 其の所用に任す。」

≪参考資料≫

   川口 陽之(きよし)氏著  「垂水郷土史」 「赤石のくに」
  角田 直美(なおみ)氏著  「淡路島物語」

2016.10.18

兵馬俑展

始皇帝の陵墓と兵馬俑を見たいと思っていましたが、ついに、大阪・国立国際美術館でその展覧会が開催されましたので行ってきました。

紀元前221年、秦国(しんこく)の王:贏政(えいせい)は、中国大陸を初めて統一して、最初の皇帝「始皇帝」を名乗りました。始皇帝は、みずからの巨大な陵墓を造らせ、その近くに約8000体もの陶製の軍団「兵馬俑」を埋めさせ、始皇帝が夢みた「永遠の世界」を造りました。
(始皇帝と大兵馬俑展パンフレットより)

1974年に発見されるまで、地下に眠ったままの状態で、約2000年が過ぎました。発掘は、今も続いており、その全容は、現在の人の想像をはるかにこえるものです。

なお、当時の日本は、弥生時代前期のころで、稲作が始まったころです。中国では、日本を遥かに超える文化が栄えていたのに驚かされました。

展覧会ポスター
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写真はNGです

以下は、複製品で写真OKです

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兵馬俑(写真)
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始皇帝の使った馬車(写真)
高さ:110cm 長さ:320cm
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展示場は地下にあります
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大阪・国立国際美術館
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兵馬俑のある西安

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