真田丸はどこにあったか 1/5
NHK大河ドラマで話題の真田丸跡に行ってきました。
1600年(慶長5)年12月、関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、関ヶ原合戦に参戦しようと行軍した秀忠軍3万8000を上田城で阻止した真田昌幸、幸村親子は、高野山、九度山に配流されました。
1614(慶長19)年10月、九度山の幸村の元に、秀頼公の「家康との決戦に豊臣方として参戦してくれないか」との依頼が来、それに呼応して大阪城に入城しました。そしてただちに大阪城惣構え南東の玉造口に出城を築きました。それが「真田丸」です。
同年12月、家康軍3万5000が真田丸を攻めるが、真田軍5000が迎え撃ち、家康軍に約1万の戦死者を出すほどの大打撃を与えました。真田恐るべしと家康は、和議を申し入れ、和議の条件が大阪城二の丸、三の丸の破壊と堀の埋め立てでした。その結果、真田丸も破壊されてしまいました。
1600年(慶長5)年12月、関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、関ヶ原合戦に参戦しようと行軍した秀忠軍3万8000を上田城で阻止した真田昌幸、幸村親子は、高野山、九度山に配流されました。
1614(慶長19)年10月、九度山の幸村の元に、秀頼公の「家康との決戦に豊臣方として参戦してくれないか」との依頼が来、それに呼応して大阪城に入城しました。そしてただちに大阪城惣構え南東の玉造口に出城を築きました。それが「真田丸」です。
同年12月、家康軍3万5000が真田丸を攻めるが、真田軍5000が迎え撃ち、家康軍に約1万の戦死者を出すほどの大打撃を与えました。真田恐るべしと家康は、和議を申し入れ、和議の条件が大阪城二の丸、三の丸の破壊と堀の埋め立てでした。その結果、真田丸も破壊されてしまいました。
真田丸のあったのは大阪城南の現在は、明星学園があるあたりで、江戸時代の古地図には、この辺りは、真田山と心眼寺、興徳寺、大応寺などが書かれています。
真田丸は、東は三光神社~西は明星学園の西の道路までです。
真田丸の形・大きさなどについては、丸型説、四角型説などいろいろとあります。
歩いてみると三光神社~真田山小学校の右側は崖になっています。明星学園西側の道路は、緩やかな坂で北に向かって下っており、八大院~傳長寺の前の道路あたりが堀であったようです。規模は、南北は、堀の大きさを加えると約270m、東西280mの説に合うようです。
真田丸は、こんな雰囲気で、四角形に近い形をしていたと思われます。
真田丸は、こんな雰囲気で、四角形に近い形をしていたと思われます。
真田丸の詳細記事を続けてあと4回アップします。興味のある方は、訪問お願いします。
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シネマさん&しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。
シネマさん、丸は船の名前によく使われますね。
そうゆう見方をあるんだ。
しずかさん
すでに歩かれたんですね。
2015年に心眼寺に信繁の墓ができ、
2016年に真田丸顕彰碑ができました。
大河ブームにのりおくれないようにとあわてて造ったようです。
玉造駅前商店街も真田丸で盛り上がっています。
投稿: ラメール | 2016.06.09 12:04
ラメールさん、真田丸の取材ご苦労様でした。
私もこの界隈を歩いてみましたが、結構広いエリアですね。
前にはなかった案内板が、明星学園の前にできたり、以前よりわかりやすくなりました。
投稿: しずか | 2016.06.09 10:56
真田丸~~~船かと思ってました!
投稿: シネマ大好き娘 | 2016.06.09 03:21