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2016.05.12

高梁教会 山中鹿之助の墓 5/5

岡山県下最古の高梁キリスト教会と山中鹿之介の墓を紹介します。

江戸時代後期頃の高梁の街の絵図
(クリック拡大)
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高梁教会

1889(明治22)年、に建設されました。
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新島襄と八重夫人
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1880(明治13)年に新島襄が高梁(備中松山城の城下町)でキリスト教の布教活動のために訪れており、それ以降、キリスト教が急速に広がっていきました。その時、八重夫人(大河ドラマ 八重の桜)も同行したかもわかりません。

新島襄は、1864(「元治元)年、アメリカ合衆国への渡航を画策し、備中松山藩所有の「快風丸」に乗って開港地の箱館へ行き、そこからアメリカに密航しました。





山中鹿之助の墓
鹿之介は、尼子氏に仕えていたが毛利に敗れる。1578(天正6)年、毛利氏と対峙した秀吉軍の上月城(兵庫県)に布陣するも敗れ、人質となった鹿之介は、備中松山城に陣をはる毛利輝元の下へと連行されることとなる。しかし、途上の備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏の刺客により謀殺されました。
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山中鹿之介の首塚(広島県福山市鞆町後地)
備中松山城で毛利輝元の首実験を受けた鹿之介の首は、鞆の浦に送られました。当時、毛利氏に身を寄せていた足利義昭がこの地に滞在していたので、その首実検に供するためです。


山中鹿之介墓の地図は こちら

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コメント

四方さん
訪問とコメントありがとうございました。

山中鹿之介の墓は、街外ですので、チョットわかりにくいです。

尼子家の再起を期しての行動も、ここでついに力つきたと

言うことです。

高梁市は、見所いっぱいの場所でした。

備中松山城とその城下町は見ていますが、時間が無く山中鹿助のお墓は見て無かったのですがラ・メールさんの記事で見せて貰いました。
バックデートで見せて貰いました。

シネマさん
訪問とコメントありがとうございました。

八重さんは、新島譲から「ハンサムな人」と言われていました。
今で言えば、飛んでる人だったのでしょう。

好奇心があって、行動力がある。

八重婦人~帽子かぶって、おされですね~

めりいさん
訪問とコメントありがとうございました。

私は、ほとんどが行きあたりばったりです。
今回は、歴史好き仲間が綿密に調べてくれて、
私は、ついていっただけです。

高梁のいいところは、ほぼ行けたかなぁと
思っています。
ここは、備中の小京都です。

ラメールさんの史跡めぐりは、見落とすことなくパーフェクトに回っておられますね。
いつも記事を読んで、感心しています。
それだけ前準備が完璧なのでしょうね。

私は鹿之助のお墓には行きましたが、高梁教会の前は素通りし、ましてや新島襄ゆかりの地とは全く知らずにいました。

しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。

今年は、真田丸ですが、その史跡を追っかけていると、
偶然に、過去の大河の史跡にちあたると懐かしく感じます。
今回は、八重の桜と黒田官兵衛でした。

今年も早くも5月も半ばを過ぎました。

山中鹿之介の首塚は見ましたが、高梁のお墓は立派ですね。

新島襄と八重夫人、懐かしいです。

大河ドラマを追いかけていると、一年過ぎるのが早く感じますね。

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