高梁教会 山中鹿之助の墓 5/5
岡山県下最古の高梁キリスト教会と山中鹿之介の墓を紹介します。
江戸時代後期頃の高梁の街の絵図(クリック拡大)
高梁教会
1889(明治22)年、に建設されました。
新島襄と八重夫人
1880(明治13)年に新島襄が高梁(備中松山城の城下町)でキリスト教の布教活動のために訪れており、それ以降、キリスト教が急速に広がっていきました。その時、八重夫人(大河ドラマ 八重の桜)も同行したかもわかりません。
新島襄は、1864(「元治元)年、アメリカ合衆国への渡航を画策し、備中松山藩所有の「快風丸」に乗って開港地の箱館へ行き、そこからアメリカに密航しました。
山中鹿之助の墓
鹿之介は、尼子氏に仕えていたが毛利に敗れる。1578(天正6)年、毛利氏と対峙した秀吉軍の上月城(兵庫県)に布陣するも敗れ、人質となった鹿之介は、備中松山城に陣をはる毛利輝元の下へと連行されることとなる。しかし、途上の備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏の刺客により謀殺されました。
(クリック拡大)
山中鹿之介の首塚(広島県福山市鞆町後地)
備中松山城で毛利輝元の首実験を受けた鹿之介の首は、鞆の浦に送られました。当時、毛利氏に身を寄せていた足利義昭がこの地に滞在していたので、その首実検に供するためです。
山中鹿之介墓の地図は こちら