真田幸村蟄居の地3/4 九度山真田庵
1600年(慶長5)年に起こった天下分け目の戦い:関ヶ原合戦で、西軍(豊臣秀頼方)に組した
真田幸村は、西軍の敗戦により死罪が処せられるところ、東軍(徳川家康方)についた兄:信之の助命嘆願で死罪は免れ、同年10月、父:昌幸と和歌山高野山蓮華定院へ流罪となりました。
同年冬、妻子との生活を許された真田親子は、高野山北側の麓の九度山に移り、そこで生活しました。その跡地に建つっているのが善名称院真田庵です。1611年(慶長11)、配流から11年、再起の夢かなわず、昌幸は病没しました。享年65歳。
真田家家系(宝物館)
真田庵
善名称院(城郭風の屋根)
真田地主大権現
昌幸を神として祀った
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蕪村句碑
炬燵して 語れ真田が 冬の陣
別に一句
かくれ住んで 花に真田が 謡うかな
宝物館(境内)
昌幸公
幸村公
幸村公大阪夏の陣使用槍先
雷封じの井戸(境内にあります)
真田の抜け穴
真田庵から東へ170mほどのところにあります。
大阪城に続いているとの伝説が残っています。
実際は、4世紀ころの古墳で、真田古墳と言われています。(クリック拡大)
1614(慶長19)年、豊臣秀頼公から徳川家康との戦いに「力を貸していただきたい」との依頼を受け、
「秀吉公の恩義に報いるためにも、喜んで協力いたそう。」
幸村は、息子:大助と共に14年間暮らした九度山を後にして、大阪城に入りました。
真田庵の地図は こちら
和歌山県伊都郡九度山町九度山1413
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めりいさん
訪問とコメントありがとうございました。
4年も前から今年の「真田丸」を予想しておられたのですか。
大河の史跡ならなんでも大丈夫なようですね。
私は、幸村が関ヶ原のあとこんなところに流されていたのを
知ったのは、つい最近です。
やっぱりスパー歴女は違いますね。
投稿: ラメール | 2015.12.30 02:31
4年ほど前、私も九度山の真田庵に行きました。
駅から歩く道も、真田幸村一色で、なかなか面白かったのが記憶に残っています。
宝物館に「幸村公大阪夏の陣使用槍先」があったのですか。
残念ながら、私はこれを見逃しました^^;
投稿: めりい | 2015.12.29 20:53
しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。
上田は、関西からと比べると近いですね。
パンフレットも取り寄せての準備が整ってきましたね。
大河のない日曜日は、寂しいです。
早く「真田丸」始まってほしいです。
投稿: ラメール | 2015.12.29 02:08
シネマさん
訪問とコメントありがとうございました。
この槍先は、幸村公が大阪夏の陣で使った本物らしいです。
幸村が住んでいた跡にできたお寺ですから、幸村の槍が
代々受け継がれて伝わったのでしょう。
もう冬休みですか。
1年間、お勤めご苦労さんでした。
投稿: ラメール | 2015.12.28 11:35
善名称院の屋根が面白い造りをしていますね!
今日、上田市から資料が届きました。
真田ゆかりの地もそれぞれ本格的なPR合戦が始まっているようです。
来年は、ラメールさんの記事と、その資料をもとにゆかりの地の散策をしたいです。
投稿: しずか | 2015.12.28 11:31
槍先、ほんまもんですか~怖い>_<
投稿: シネマ大好き娘 | 2015.12.28 03:18