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2015.12.28

真田幸村蟄居の地3/4 九度山真田庵

1600年(慶長5)年に起こった天下分け目の戦い:関ヶ原合戦で、西軍(豊臣秀頼方)に組した
真田幸村は、西軍の敗戦により死罪が処せられるところ、東軍(徳川家康方)についた兄:信之の助命嘆願で死罪は免れ、同年10月、父:昌幸と和歌山高野山蓮華定院へ流罪となりました。

同年冬、妻子との生活を許された真田親子は、高野山北側の麓の九度山に移り、そこで生活しました。その跡地に建つっているのが善名称院真田庵です。1611年(慶長11)、配流から11年、再起の夢かなわず、昌幸は病没しました。享年65歳。

真田家家系(宝物館)
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真田庵
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善名称院(城郭風の屋根)
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真田地主大権現
昌幸を神として祀った
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昌幸公墓・400年忌碑   ↓
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蕪村句碑
炬燵して 語れ真田が 冬の陣
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別に一句
かくれ住んで 花に真田が 謡うかな

宝物館(境内)

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昌幸公
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幸村公
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幸村公大阪夏の陣使用槍先3_r_2





雷封じの井戸(境内にあります)
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真田の抜け穴
真田庵から東へ170mほどのところにあります。
大阪城に続いているとの伝説が残っています。

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実際は、4世紀ころの古墳で、真田古墳と言われています。(クリック拡大)
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1614(慶長19)年、豊臣秀頼公から徳川家康との戦いに「力を貸していただきたい」との依頼を受け、

「秀吉公の恩義に報いるためにも、喜んで協力いたそう。」

幸村は、息子:大助と共に14年間暮らした九度山を後にして、大阪城に入りました。

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真田庵の地図は こちら

和歌山県伊都郡九度山町九度山1413

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コメント

めりいさん
訪問とコメントありがとうございました。

4年も前から今年の「真田丸」を予想しておられたのですか。
大河の史跡ならなんでも大丈夫なようですね。

私は、幸村が関ヶ原のあとこんなところに流されていたのを
知ったのは、つい最近です。

やっぱりスパー歴女は違いますね。

4年ほど前、私も九度山の真田庵に行きました。
駅から歩く道も、真田幸村一色で、なかなか面白かったのが記憶に残っています。

宝物館に「幸村公大阪夏の陣使用槍先」があったのですか。
残念ながら、私はこれを見逃しました^^;

しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。

上田は、関西からと比べると近いですね。
パンフレットも取り寄せての準備が整ってきましたね。

大河のない日曜日は、寂しいです。
早く「真田丸」始まってほしいです。

シネマさん
訪問とコメントありがとうございました。

この槍先は、幸村公が大阪夏の陣で使った本物らしいです。

幸村が住んでいた跡にできたお寺ですから、幸村の槍が
代々受け継がれて伝わったのでしょう。

もう冬休みですか。
1年間、お勤めご苦労さんでした。

善名称院の屋根が面白い造りをしていますね!

今日、上田市から資料が届きました。
真田ゆかりの地もそれぞれ本格的なPR合戦が始まっているようです。

来年は、ラメールさんの記事と、その資料をもとにゆかりの地の散策をしたいです。

槍先、ほんまもんですか~怖い>_<

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