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2015.06.26

道明寺・誉田合戦(大阪夏の陣4)

1615年1月9日(旧暦12月20日)、大阪冬の陣の和平が成立し、二の丸は豊臣側、三の丸と外堀は徳川側が埋め立てると決まりましたが、徳川側は「工事が遅いから手伝う」と言いがかりをつけ、二の丸も埋めてしまい、豊臣側は、大阪城本丸だけとなりました。

5月1日(旧歴4月4日)、家康は徳川義直(家康の九男 初代尾張藩主)の婚儀のためとして、名古屋に向かいます。

6月1日(旧暦5月5日)、家康は、京を出陣しました。戦力155,000、この兵を二手に分け、河内路と大和路から大阪に向かいます。対する豊臣側の兵力は78,000。籠城戦では勝つ見込みがないため、総大将家康の首をとるため野戦にうってでました。

 

6月2日(旧暦5月6日)、大和路から大阪城に向かう徳川軍35,000を豊臣軍が迎撃した道明寺・誉田(こんだ)合戦が起きました。

Photo

 

6月2日(旧暦5月6日)午前4時ころ、後藤又兵衛軍2800は、小松山(図2)に進出、徳川方約2万(伊達政宗軍1万、本多忠政軍5千など)に包囲され、午前10時ころ又兵衛討死。 (図2)

Photo_2
柏原市玉手町25

後藤又兵衛は、黒田長政に仕えていたが謀反の疑いを懸けられ浪人となり、1614(慶長19)年、大阪冬の陣の時、豊臣秀頼の招きで豊臣方に味方しました。豊臣方の五人衆の一人です(真田幸村、長宗我部盛親、毛利勝久、明石掃部)

 

真田幸村隊、毛利勝永隊が遅れて到着して、伊達隊と戦うも(図1)八尾・若江の戦いで木村隊が壊滅したとの報を受け。大阪城に撤退しました。
Photo_3
羽曳野市誉田3-2-8 誉田八幡宮



道明寺・誉田合戦の場所は こちらから

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コメント

しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。

大河江の時に行かれたのですから、大いに先見の明があったのです。

後藤又兵衛は、軍師官兵衛でも出てきましたし、
この場所は、来年の大河真田幸村でも出てきます。

軍師官兵衛で出てきた後藤又兵衛がどうなったかわからなかったのですが、
ここでやっと又兵衛の最後を知ることができました。

あれ~~懐かしい!!

そうそう、ここはめりいさんに同行してもらって行ったところです。

坂がきついところで、タクシーで行きました。

又兵衛の墓のところは、私たち以外誰もいない公園だったと記憶しています(^_^;)

シネマさん
訪問とコメントありがとうございました。

バスツアーは盛んに行われていますよ。

紫陽花と高級料亭での食事など。
ただ、アルコールは別払いですが。

料金は、自分一人で行く費用の倍以上かかりますね。

シネマもバスツアーに参加したいです!

めりいさん
訪問とコメントありがとうございました。

この場所は、すでにこのブログで登場済みです。
「江~姫たちの戦国」の2011年10月30日にありました。


その時の記事を読んでみると大阪夏の陣のことが詳しくわかりました。
来年の大河真田幸村で使える記事がいっぱいありました。


私は、「豊臣滅亡400年バスツアー」で行きました。
記事を書くのに当時の記事を参考にさせていただいています。

ここは、見覚えがある場所です。
多分、しずかさんと一緒に行った所だと思います。

後藤又兵衛は、官兵衛の時に折に触れ登場していましたが、来年の大河では、その続きを見ることが出来るのですね。

楽しみです。

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