道明寺・誉田合戦(大阪夏の陣4)
1615年1月9日(旧暦12月20日)、大阪冬の陣の和平が成立し、二の丸は豊臣側、三の丸と外堀は徳川側が埋め立てると決まりましたが、徳川側は「工事が遅いから手伝う」と言いがかりをつけ、二の丸も埋めてしまい、豊臣側は、大阪城本丸だけとなりました。
5月1日(旧歴4月4日)、家康は徳川義直(家康の九男 初代尾張藩主)の婚儀のためとして、名古屋に向かいます。
6月1日(旧暦5月5日)、家康は、京を出陣しました。戦力155,000、この兵を二手に分け、河内路と大和路から大阪に向かいます。対する豊臣側の兵力は78,000。籠城戦では勝つ見込みがないため、総大将家康の首をとるため野戦にうってでました。
6月2日(旧暦5月6日)、大和路から大阪城に向かう徳川軍35,000を豊臣軍が迎撃した道明寺・誉田(こんだ)合戦が起きました。
6月2日(旧暦5月6日)午前4時ころ、後藤又兵衛軍2800は、小松山(図2)に進出、徳川方約2万(伊達政宗軍1万、本多忠政軍5千など)に包囲され、午前10時ころ又兵衛討死。 (図2)
柏原市玉手町25
後藤又兵衛は、黒田長政に仕えていたが謀反の疑いを懸けられ浪人となり、1614(慶長19)年、大阪冬の陣の時、豊臣秀頼の招きで豊臣方に味方しました。豊臣方の五人衆の一人です(真田幸村、長宗我部盛親、毛利勝久、明石掃部)
真田幸村隊、毛利勝永隊が遅れて到着して、伊達隊と戦うも(図1)、八尾・若江の戦いで木村隊が壊滅したとの報を受け。大阪城に撤退しました。
羽曳野市誉田3-2-8 誉田八幡宮
道明寺・誉田合戦の場所は こちらから