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2015.03.07

瀬戸内マリンビューの旅 竹原 頼山陽

1650(慶安3)年、広島藩ではじめて入浜塩田が開発され、全国的に有名になり、酒造業とともに竹原の発展のもとになりました。そして、学問を尊ぶ気風を生み、頼山陽、竹鶴政孝、池田勇人などの著名人を輩出しました。

今回は、頼山陽の史跡を紹介します。

頼山陽肖像画(歴史民俗資料館)
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1780(安永9)年~1832(天保3)年 享年53歳
江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。
(参考資料:Wikipedia)

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頼山陽広場
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鞭声粛々 夜河をわたる
暁にみる 千兵の大牙を擁するを 
遺恨十年 一剣を磨き 
流星光底 長蛇を逸す 

「べんせいじゅくしゅく~ よるかわをわたる」
上杉謙信と武田信玄の一騎打ちの場面を詠んだ山陽作の有名な漢詩文「川中島」です。

 

 
山陽の祖父:頼惟清宅
紺屋を営み、その子:春水(山陽の父)は、広島藩の儒者となり、第二子:春風は、医者となって竹原の家を継ぎました。その家です。
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頼山陽は文政7年(1824)45歳の時の詩

昔、我が家で読書をしながら見ていた山だが、
窓からみえる山の色は昔のままだ
私は京都の色にそまり、ひげ面が恥ずかしいが、
帰って来て山を見れば、昔のままの高くそびえたったている


頼山陽広場への地図は こちらから

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コメント

めりいさん
訪問とコメントありがとうございました。

頼山陽の考え方が維新に影響したので松陰がテキストに
使ったのですか。
頼山陽の子孫が松陰と一緒に処刑された。
学ぶことが命がけだった時代なんですね。

こんな先駆者がいたから、今の日本があるんですね。

いい情報をありがとう。

ラ・メールさん。
頼山陽の「日本外史」は、吉田松陰が松下村塾でテキストに使ったものです。

頼山陽の子ども・頼三樹三郎は、松陰と同じく安政の大獄で処刑されていますね。

私もとても興味があります。
いつか行ってみたいですね。

しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。

竹原の街は、なかなか江戸時代の雰囲気が残っていて
いい街です。
この街並みを残していかれるのも大変でしょう。

今回は、街並み以外に日本ウイスキーの父の出身地で
有名になりました。

萩も、昔の雰囲気が残っている町でもう一回行ってみたいです。

頼山陽の銅像は写しましたが、その他は行っていません。

ラメールさんは、竹原の街を隅々まで回られましたね!

またゆっくり散策してみたくなりました。

シネマさん
訪問とコメントありがとうございました。

お父さんを思い出されましたか。
この川中島は、超有名ですね。
作者が、頼山陽と走りませんでした。

それにしても70歳は、若すぎますね。

亡くなった父が川中島をよく歌ってました。詩吟で・・

享年70歳>_<

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