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2014.10.19

合戦後の三木の街

三木合戦で荒廃した三木の町を復興させるため、秀吉は、地子免許(じしめんきょ)・諸役免除を認める制札を出しました。これを元に三木の町は復興して、現在の金物の町(大工道具などの生産)に発展していきました。

※地子免許とは 町屋敷地にかかる地子(農村の年貢)を領主権力が免除すること
※制札(せいさつ)とは 一般に知らせる禁止・伝達事項を書いて,道路などに立てておく札


物神社
鳥居

神社


本要寺
秀吉が行った制度の古文書などが保管されています。
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江戸時代に、赦免取り消しの危機にたたされましたが、町民代表が幕府に直接訴えて、この危機を脱しました。本寺の蔵に、その資料などが保存されています。
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供養碑
左:長治
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本要寺の地図は こちらから
三木市本町2-3-6


金物神社への地図は  こちらから



司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 別所衆」の中で、戦後の処置について次のように書いています。
かれ(秀吉)は、三木が陥ちるとすぐさま城下の商人に対し、免税すべき旨の高札(こうさつ)をたてた。占領した城下をただちに楽市楽座にするというのは織田家の大方針であり、それによって中世経済を桎梏(しつこく)から商人たちを解放し、商品経済を活発にするというのが目的だったから、秀吉のやったことはべつに独創ではない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
むしろ、中世においていやしめられていた商人たちは秀吉という人物の出現をよろこんだかのようである。農民も、籠城戦に参加しながら、うらんでいる様子もない。
※桎梏(しっこく)とは、「行動・生活などの自由を厳しく束縛するもの」

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黒田官兵衛ゆかりの史跡」カテゴリの記事

コメント

しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。

播磨等物語は、官兵衛のことをよく調べて書いてあります。
よくこれだけの資料を集めて書かれたと思います。

さすが、司馬遼太郎氏です。

大坂ですか、何か新しいものをかぎつかれたのでしょう。
記事をたのしみにしています。

ただ今、大阪にいます。

ラメールさんの記事は、播磨灘物語の一節も紹介してくれてあるので、その情景が浮かんでくるようです。
貴重な記事をありがとうございます。

めりいさん
訪問とコメントありがとうございました。

秀吉は、毛利攻めの拠点に三木を考えていたのではないでしょうか。

毛利に勝った後、都への中継地点としても三木を考えており、
町の繁栄は必要なことだったのでしょう。

この時点では、まさか自分が天下をとるとは、思っていなかったでしょう。

秀吉は、戦いで疲弊した町を復興させる手はずもきちんと取っていたのですね。
そうした権利が、徳川幕府の時代になっても続いたのですね。

三木市は金物の町とは耳にしたことがありますが、金物神社まであるのですね(笑)

シネマさん
訪問とコメントありがとうございました。

この時代では珍しく、経済の発展で町を豊かにしようと

考えることのできる人でした。

金物の街:三木をつくったのは、秀吉と言っていいでしょう。

秀吉は、すばらしい人だったですね!

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