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2014.10.03

別所長治・一族切腹 辞世の歌  首実験の本要寺

三木合戦は、1580(天正8)年1月、城主:別所長治と一族の自害と城兵の助命を条件に秀吉に降伏し、三木城が開城されました。
1年10ヶ月にわたる織田氏との戦いに終止符がうたれました。

 

 

長治公切腹絵図(三木城内合戦絵図より)
一月十七日自刃 長治公 享年23歳
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別所一族妻子自害
6



長治公辞世の歌碑(三木城内)
「今はただうらみもあらじ諸人の命に
       かはる我身を思へば」
23


別所一族辞世の歌碑
8
右から

長治弟友之の辞世の句
「命をもおしまざりけり梓弓すゑの世までも名の残れとて」。享年21歳

 
長治妻辞世の歌
「もろともに消えはつるこそ嬉しけれ後れ先だつならひなる世に」 享年22才。

友之の妻の辞世の句
「たのめこし後の世までに翅をもならぶる鳥のちぎりなりけり」享年17歳


長治の叔父賀相の妻辞世の句
「のちの世の道も迷はじ思い子を連れて出でぬる行く末の空」


5番目の歌は、分かりません。

 

 

本要寺
天正8年1月、三木城が落ちると、秀吉は、平井山本陣からこの寺の本堂に移り、別所長治らの首実験をし、その後の戦後処理の場にしました。
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4
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秀吉は、三木を復興させるため、地子免許(税を免除する)にしましたが、江戸時代に、赦免取り消しの危機にたたされましたが、町民代表が幕府に直接訴えて、この危機を脱しました。本寺の蔵に、その資料などが保存されています。
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供養碑
左:長治
Photo_6 Photo_7


本要寺の地図は 
こちらから
三木市本町2-3-6

 

司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 別所衆」の中で、別所一族の自害について生生しく書いています。そして、首実験した本要寺、埋葬した法界寺についても書いています

 

長治と一族の自害は、天正8年1月17日、城内の「御殿」でおこなわれた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
こういう場合の自害は、婦人たちからはじまる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最初に、長治の叔父別所賀相の妻が、果た。・・・・・・・
装束は、他の婦人と同様、白羽二重(しろはぶたえ)の小袖である。まだ十歳にならぬ少年と、五、六歳の娘をそばにひきつけている。
「みなさま、あとよりお越しなされよ」
と、まず少年を引き寄せ、短刀をもって一息に刺し殺した。次いで、娘を殺し、息もみだれさせずに、辞世の歌を詠んだ。
「のちの世の道も迷はじ思い子を連れて出でぬる行く末の空」とうたいおえると、作法どおり乳房の下を突き、さらに刃をもとにもどし、のどを突いて、突っ伏せた。
次いで、長治の弟彦之進友之の妻の順である。・・・・・・齢十七で、懐妊していた。・・・・辞世を詠んだ。
「たのもしやのちの世までもつばさをばならぶる程の契りなりけり」
・・・・・・・・・・・・・・
最後に、長治の妻お照が、男女四人の子をつぎつぎに膝に抱きあげて刺し殺し、最後に介添なしで自害し果た。
「もろともに消えはつるこそうれしけれ遅れさきだつならひなる世に」というのがその辞世である。
彼女は、齢二十二であった。道連れにしたそのこどもは、五歳の竹姫をかしらに、四歳の虎姫、三歳の千松丸、一歳の竹松丸である。

 

別所長治は、妻子の自害を見とどけたあと、自分が切腹すべき場所にもどった。・・・・・・・・・・・・・・・
長治は、自分が切腹することによって士卒が助命される。悲運に立ち至ったとはいえ、そのことに辛うじての慰めを見出す心境にあったらしい。かれはすでに辞世をつくっていた。
「今はただうらみもなしや(注・あらじ、とも言う)諸人の命にかはる我身を思へば」
というかれの歌は正直な気持でもあったであろう。しかしながら、長治は別に末期の歌を詠んだともいわれる。
「ながはると呼ばれしこともいつはりよ二十五年の春を見すてて」
この歌は、自分の命のみじかかったことのうらみを、うらみのまま述べている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

〔本要寺〕
秀吉が、別所長治ら三人の首実験をしたのは、本要寺の境内においてである。本要寺は美濃川を城側にわたったところで、三木城の本城である「釜山」が目の前にある。

 

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コメント

長治と長春をかけているのですね。

長い春ではなく、わずか25年の春でしかなかった・・と。

悲しいですね。

この時代の武将は、みんな辞世の歌がよめたんですね。

なかなか死の間際で歌を読むのは難しです。
それとも、以前から準備をしていたのでしょうか。

長治の別の歌は、心のそこにあった声をはきだしたのでしょう。
長治と呼ばれたのは偽りでした、25年間の短いはかない人生でした。

こんなふうに解釈しました。いかがですか。

別所長治のもう一つの辞世の句

「ながはると呼ばれしこともいつはりよ二十五年の春を見すてて」

これは、真に心の叫び声ですね。

こんな歌もあったとは驚きです。

シネマさん&しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。

女、子供も戦いの結末を避けることは、できなかった時代です。
辞世の歌を読み、自害の作法どおりに行う。

時代とは言え、生きるのに覚悟のいった時代でした。

辞世の歌を読めと言われても思いうかびません。

長治公切腹絵図、一族自害絵図・・・生々しいですね(;O;)

女、子どもまでもこのような結末を迎えなければいけない

厳しい時代だったのですね。

21歳や17歳で・・・・

かわいそう~~~~

これから楽しい青春なのに~

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