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2014.10.21

秀吉、官兵衛 淡路島を平定(岩屋城)

秀吉が淡路島を平定したのは、
1580年に三木城を攻略した後、秀吉は、1581(天正9)年6月の2度目の鳥取城攻めをして、官兵衛も参戦しています。城の周りの米を買占め鳥取城を兵糧攻めにして場内を飢餓状況に追い込み(鳥取の餓え殺し)、3か月で攻略しました。

同年の11月、官兵衛も参戦して、毛利の前線基地である淡路島を攻略するため明石から出陣して淡路島の北端にある「まないた山城」を落として、そのまま南下して由良城、洲本城、志知城など淡路島の主だった拠点を攻め落としています。淡路島は、織田信長の勢力下におかれました。


淡路島城地図

24


 
まないた山城
淡路島の北端にあって明石からは一番近い所に位置します。城跡など、確認する遺構などはありません。
4
左の橋は、明石海峡大橋

 

淡路SSより見た明石海峡(手前は岩屋)
S4

 

岩屋の街並み
24_2

 

岩屋港(高速艇が明石まで運行されてます)
4_2





まないた山城 岩屋の地図は こちらから
兵庫県淡路市岩屋大谷


淡路島の地図は こちらから

 

 馬遼太郎氏著「播磨灘物語 野火」で淡路平定について次のように書いています。

天正9年(1581)の秋が深むころ、官兵衛は明石の岸辺から小さな船に乗った。
目の前に、淡路島がある。海峡の潮の流れのうるやかなときを測って舟を出したのだが、それでも舟はゆるやかに流されてゆく。・・・・・・・・・・・・・・・・
岩屋城は、淡路島の北端にある。官兵衛がこの城に入ったのは昼過ぎだったが、・・・・・・・・・・淡路島は室町のある時期から、安宅氏という豪族が支配している。安宅氏は、かっては、紀州の熊野にいて、熊野海賊の一つの脈であり、安宅(地名)を根拠地にしていた。


淡路島についての記述は、「秋浅く」の中の別府城合戦で官兵衛が、毛利・雑賀軍2000人を相手に戦ったことが書かれています。


雑賀党は大阪の湾から出てくる。毛利軍ははるか西方の広島あたりから出ている。それらが、毛利圏の中に入る淡路島の岩屋で終結し、多数の軍船をそろえて、別府の浜にむかって漕ぎだしたのである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・淡路島の北端から播州海岸にいたるまでの海面に、ごまをまいたように船がうかんでいた。どの船も軍兵を満載し、この別府の海岸にむかってすすんでいた。

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黒田官兵衛ゆかりの史跡」カテゴリの記事

コメント

めりいさん
訪問とコメントありがとうございました。

淡路攻略では、官兵衛は、秀吉の名代として行ったようです。

ドラマでは、ほとんどふれられていませんでしたが、
戦いのシーンは経費がかかるので中止は、なるほどと思います。
現地撮影だと遠征費もけっこうかかるでしょう。

現地撮影なら、淡路は盛り上がったでしょうが、
残念ながら素通りでした。

大河ドラマの中で、鳥取・淡路島・四国の戦いはさらっと終わってしまいましたね。

もっと官兵衛の軍師としての活躍を見たかったのですが、やっぱり戦いのシーンは大勢の役者を動員しなければならないので、制作費が高くなるのでしょうね(笑)

シネマさん
訪問とコメントありがとうございました。

いつも訪問していただきありがとう。

遠くから見た感じではまな板に似てません。
近くに行ったら、そんなようなものが
あるのかも知れませんが。

行く気になればそんな遠いところでもありませんが、
特に紅葉が綺麗というわけでもありませんから。

今日は、雨模様です。

淡路島~近いようで遠いです~

まないた山城~

まないたに形が似てるから?!

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