秀吉、官兵衛軍 淡路島平定(志知城)
秀吉は、岩屋城、由良城に続き、最後に志知城を陥落させた。そして、直後は、黒田官兵衛が在城して、四国の長宗我部氏に備えました。その後、加藤嘉明(よしあき 賤ヶ岳七本槍の一人)が城代になり、後、転封で秀吉の直轄地になりましたが、三原川の河口付近に叶堂が築かれたため、廃城となりました。
淡路島地図
志知城跡(しちじょう)
城跡は、志知交差点の東南に位置して、堀に囲まれているが、雑木、畑に囲まれているため、どこから入っていいか分からない状態です。南側に「この橋あぶない」と書かれた小さな橋がありますが、本当にあぶないです。中に入ると、秀吉が腰掛けたと言われる「太閤石」があります。後年この城は、加藤嘉明が入り、水軍を編成して小田原攻め、朝鮮出兵などに参戦しています。
茂みの中は、平地になっていますが、草が生い茂って城の遺構はみつかりません。
上の写真の手前に畑があってそこに秀吉が座ったと言われている「太閤石」があります。
南側に堀の跡がありました。
東側にある鳥居ですが、ここは入口ではありません。左に周ると小さな橋があります。
兵庫県南あわじ市志知松本
司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 野火」の中で志知城について次のように書いています。
司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 野火」の中で志知城について次のように書いています。
9月に入って、海に凪の日が多くなった。このころ、官兵衛は、志知城(一名、野口城)という城に入った。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
淡路の志知城は島の西南端の内陸にある。官兵衛がここを策源地にしたのは、阿波に近いためである。志知城から二里半ほどで、浜に出る。あとは鳴門海峡をわずかに突っきるだけで、阿波の陸地を踏むことができる。官兵衛は淡路を平定しつつあるときに、すでに阿波の工作をはじめていた。
淡路の志知城は島の西南端の内陸にある。官兵衛がここを策源地にしたのは、阿波に近いためである。志知城から二里半ほどで、浜に出る。あとは鳴門海峡をわずかに突っきるだけで、阿波の陸地を踏むことができる。官兵衛は淡路を平定しつつあるときに、すでに阿波の工作をはじめていた。
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しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。
堀があって、城全体の形は残っています。
四国侵攻のために使っただけで、
あとは、廃城になったようです。
淡路で、城らしいのは、洲本城くらいです。
投稿: ラメール | 2014.10.28 11:19
城の遺構がなくても、太閤石だけは残されているのですね。
これひとつでもあれば、足を運んだ者には嬉しいことです。
また貴重な記事をありがとうございました。
投稿: しずか | 2014.10.28 10:11
めりいさん
訪問とコメントありがとうございました。
城の輪郭だけはしっかり残っていますが、
あとは、草と木が生い茂っています。
「あぶない橋」を渡ると「太閤石」があります。
これは、石があったから、「太閤石」と
なずけたのでしょう。
秀吉がこの城に来たのは確かですから、
こんなのもあってもいいかなぁ。
投稿: ラメール | 2014.10.28 02:07
志知城跡は、城趾らしきものは何も残っていないようですが、太閤石だけはきちんと表示されていますね。
やっぱり秀吉には、人の目を引く魅力があるのですね。
>「この橋あぶない」と書かれた小さな橋
直すか、撤去するか、どちらかにして欲しいですね(笑)
投稿: めりい | 2014.10.27 19:53
シネマさん
訪問とコメントありがとうございました。
四国も織田信長の勢力圏に入りました。
淡路から徳島の方にはいったようです。
投稿: ラメール | 2014.10.27 00:23
四国にきたんですね!知りませんでした!
投稿: シネマ大好き娘 | 2014.10.26 16:19