秀吉、官兵衛 淡路島平定(由良、洲本、沼島)
1581(天正9)年11月、阿波の三好家からの要請で援軍を送り、官兵衛も淡路(まないた山城、岩屋)に上陸し、由良城、沼島城、洲本城を攻め落としました。官兵衛36歳の時です。
淡路島城配置図
あわじ地図
由良城
淡路では、当時は由良城が中心でした。
由良城(ゆらじょう)
官兵衛は、由良城を落とすため城主の安宅河内守を謀殺しました。官兵衛が人生で二人の人を切りましたが、その一人で、その刀が「安宅切」と呼ばれ、福岡市博物館に保存されています。 城は、由良対岸の成ヶ島に築かれていましたが淡路の中心が洲本に移ったため、荒廃しました。
紀淡海峡を望む高台に設置された大砲 幕末に異国船の来航で、紀淡海峡の防衛のたに、由良の南方の現在の生石公園に大砲を設置しました。この地は、第二次大戦まで、軍部以外入ることはできませんでした。
大砲
軍の施設跡
紀淡海峡を望む
洲本城
秀吉は、淡路平定後、洲本城に仙石秀久を置き淡路を治めさせました。
淡路では、当時は由良城が中心でしたが、由良には、城下町を造る土地がなかったため1631(寛永8)年ころに、淡路全体を支配するのに適した洲本に中心が移りました。徳島藩蜂須賀領で、城代として稲田氏が派遣されました。
三熊山山頂にある洲本城
天守閣
洲本城から見た洲本市街
沼島城(武嶋城 むしま)
1581(天正9)年、反織田の梶原氏が城主の時、秀吉軍の阿波の三好軍によって攻め滅ぼされました。城跡に、蓮光寺が建っていて境内に武嶋城(むしま)の碑があります。
蓮光寺
沼島港
港
夕陽
沼島へは、船で10分ほどの距離です。人口は500名くらいです。1950年ころは、2500名ほどの人が住んでいました。
洲本城の詳細地図は こちらから
由良城、沼島城は洲本の南にあります
司馬遼太郎氏は、「播磨灘物語 野火」の中で、淡路島平定について次のように書いています。
淡路の平定はさほどの難なくすすんだ。
もともと、この小さな島一つが国という土地のなかに豪族の数が多く、そのおもな者だけでも、安宅氏、釜口氏、田村氏、島野氏、・・・・・などがいて、それぞれが塁を高くし、城砦をかまえている。かっては安宅が最強で、諸豪がこれに服していたが、いまはさほど武威もない。安宅氏の本拠は、由良にある。・・・・・・・・・・・・・・・・
由良城ではかたちだけの攻防があり、安宅猶重は、降伏開城した。
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めりいさん&しずかさん
訪問とコメントありがとうございました。
洲本城は、山頂にあって下からよく見えます。
よくあんなに高い所に登れたものです。下で忘れ物したら
また、下りて登らなければならないです。
ロープウエイがないので、車がないとチョットしんどいです。
官兵衛史跡は、兵庫県に多かったので、廻ってみました。
紹介された官兵衛史跡は、ほぼ廻っています。
九州、小田原は、皆さんの記事で行ったつもりになっています。
紹介ありがとう。
投稿: ラメール | 2014.10.25 02:03
今年は官兵衛の史跡めぐりを頑張ったつもりでしたが、
それでもすべては無理ですね。
ラメールさんには到底自分では行けないところをたくさん
紹介していただきましたね。
投稿: しずか | 2014.10.25 01:39
1950年ころは、2500名ほどの人が住んでいた町も、今は500名ですか。
過疎化が進んでいるのですね。
淡路島には何度も行ってますが、洲本城は知りませんでした。
また機会があれば、訪ねてみたいですね。
投稿: めりい | 2014.10.24 21:05
シネマさん
訪問とコメントありがとうございました。
人生50年の時代、36歳は一番活躍のできる歳なんでしょう。
官兵衛は、59歳まで生きました。
戦いを勝ち抜いてきたので、生き残れたのでしょう。
投稿: ラメール | 2014.10.24 10:56
こちらにも、由良町あります~
36歳~キャリアありますね!
さすがは、官べえさまです。
投稿: シネマ大好き娘 | 2014.10.24 04:39